「先日来、きみに言っておいた例のパーティーが今夜ある。政財界のお歴々が一斉に集う盛大なものだから、ぜひきみにも出席してもらわなければならない」
朝の食卓。
レースのカーテンがかったフランス窓からは、曇り空の鈍い光が差し込んでいる。
ブルーマウンテンの最後のひとしずくを飲み干すと、真澄は首もとのネクタイに手をかけて結び目を確かめた。読みかけの新聞をテーブルのわきに置くと、ゆっくりと席を立つ。スーツの上着を着ると、食堂のドアから出て行こうとして、食卓に座ったままの妻をちらりと一瞥した。
「我が社にとって非常に重要なパーティーだ。今夜は今までのように、体調を理由に欠席するわけにはいかないだろう」
「わかっています」
「わかっているならいい。遅れることがないようにな」
「……行ってらっしゃいませ」
妻は、まっすぐに背をのばしたまま、夫の目を見た。表情のない顔。
いつものごとく、夫を見送るために席を立とうとしない妻を、慣れたとはいえ不審な視線で見送る使用人達。
夫婦の結婚から半年間、毎朝の儀式のように繰り返される冷ややかな朝の光景だった。
「…行ってくる。どうやら今夜は……空が崩れそうだ」
真澄は窓の外の空模様を見た後、妻の顔にもう一度鋭い視線をあてた。そして、さらに何か言い募ろうとした口を引き結んで部屋を出て行った。
妻は彫像のように微動だにせず、同じ姿勢で椅子に腰かけたままだった。
パーティ会場は溢れる熱気に包まれていた。
芸能社主催のパーティというものは、ともすれば有象無象の輩が売り込みに精を出す怪しげな代物ではあるが、大都芸能主催の今夜のパーティは少々趣が違っていた。
芸能界に留まらず、政財界の主だった領袖までもが顔を揃えていた。
あちらこちらで、あるいはひそやかに、あるいは声高に交わされるささやきが会場全体を覆っている。
「いやいや、まさかとは思っていましたが。大都がここまでやりますとは……先生は想像しておられましたか」
「まったく予想してなかったよ。速水真澄は若造のわりにはやり手だとは常々聞いていたが……正直一本取られたというやつだ」
「…しかし、これで大都はあの紅天女の上演権に引き続いて、今度はマスコミ一社を完全に手中に納めたわけですからね。これからどんな手を打ってのしあがってくるやもしれませんなあ」
「うむ。…まあ、あまりのさばりすぎれば、こちらにはそれなりの対処の仕方もあるがな」
「しばらく静観というやつですか…それにしても、今日集まった人間の顔ぶれは豪華ですなあ。普段は来ないご夫人方も勢ぞろいときたもんだ。さてさて二枚目は得ですなあ」
「ふん、ただの色男にしか見えんがな」
「どうやら、今夜は速水氏が夫人を伴って出席するらしいですわよ、奥様」
「まあ、そうですの。速水真澄の夫人というとあの……」
「……ええ、そうですわ。昨年ご結婚されて、まだ一度もこういった社交の場に姿を現していないという」
「あの折は政略結婚と言うのがあまりにも見え見えでしたものねえ」
「明らかに仮面夫婦らしいですわよ。そうですわ。今夜ご一緒に確かめませんこと?」
「おほほ…奥様ったら物好きですわね。そういうことは芸能記者に任せておいたらよろしいんですわよ」
「そうですわねえ……あ、奥様…そういえば先ほど雨が降ってきたらしいですわ。今夜のお召し物は大丈夫でして」
「せっかく新調したお洋服が台無しですわねえ。帰る頃には止んでくれればいいんだけど」
「おや、そうこう申し上げておりますうちにどうやら、速水氏がお出ましですわよ」
「あら?奥様、どこですの」
さざめいていた会場全体が一瞬のうちに静まった。
真澄が一部の隙もない姿で登場すると、その前で図ったように人垣が二つに分かれ、彼の行く道が開かれた。
昨今、大都芸能が演じた、ある老舗マスコミ社の電撃的な買収劇は日々新聞の三面を賑わせ、世間にとっての彼はある種英雄じみた存在になっていた。
「速水社長、おめでとうございます」
「おめでとうございます」
「速水君、このたびは東都新報さんとの業務合併、お宅にとってはまことにめでたいことですな、おめでとう」
「ありがとうございます、先生。しかし、お祝いを言っていただく筋合いのものじゃありませんよ。東都さんとはこれからも対等におつきあいさせていただきますのでね。まあ少々大都のやり方に従っていただく点もあるやもしれませんが」
言葉の柔らかさとは裏腹な、氷のように冷たい視線が真澄から放たれる。
「……ま、ひとつ手柔らかに頼むよ。ところで、今日はきみのご夫人は来てないのかね。宅が楽しみにしておっての。こういう席に出てこられるのは今夜がはじめてだとか」
「恐れ入ります。半年前の結婚以来、妻は体調を崩す事が多くございましてあまり外に出ておりません」
「それはいかんの」
「今夜も頭痛がすると申しまして少し支度に手間取っておりましたが……ああ、やっときたようです」
先ほど静まった会場が、一層しんとする。
開かれた人垣の中の道を、ひとりの女性が歩んでくる。
ほっそりとした肢体、エレガントさを際立たせる翡翠色のドレス、背中に波打つ長い黒髪。
「あら……あの方、あんなお顔立ちだったかしら」
可憐さとかすかな気品さを漂わせる、それでいて能面のような微笑を浮べた顔が、真澄の背後で立ち止まる。
「遅かったな」
「遅れて申し訳ございません……あなた」
「まあいい……先生、紹介いたします。これが……」
速水は、背後をちらりとだけ振り返ると、冷たい微笑を張り付かせながらその言葉を放つ。
「これが、私速水真澄の妻……マヤでございます。みなさま方、どうか以後お見知りおきを」
2005.4
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