装身具考( 続き )
[ 5: ヒスイの 勾玉 ( 曲玉、まがたま ) ]![]() 日本では古代の遺跡から ヒスイ ・ 碧玉 ( へき ぎょく ) ・ 水晶 ・ メノウ ・ 琥珀 ( こはく ) などの石製品が発掘されますが、写真の ヒスイの首飾りは青森県 ・ 上北郡 ・ 六ヶ所村 ・ 尾駮 ( おぶち )にある 上尾駮 ( かみおぶち ) 遺跡から出土したもので、同時に出土した土器の年代測定により 縄文時代 ・ 早期 ( 1 万年前 〜 6 千年前 ) の 末頃に作られたものと判明しました。
これは日本で出土した ヒスイの装身具の中でも 最も古い部類 のものとされています 。 成分を分析した結果、この ヒスイの産地は新潟県の糸魚川 ( いといがわ ) でしたが、ヒスイはその美しさ ・ 硬さによる加工の困難性 ・ 採石の希少性から古代から最も貴重な宝石とされ、前述した 三種の神器の 一つにも ヒスイの勾玉 ( まがたま ) があり 皇位継承の祭具として使用されました。
ヒスイにはその硬さにより硬玉 ( こうぎょく ) と軟玉 ( なんぎょく ) がありますが、日本産の ヒスイは全て硬玉であり、産地としては日本海 ・ 北陸の海岸に多く
ちなみに ヒスイ( 翡翠 ) とは鳥の カワセミ の別名で、 翡 ( ヒ ) とは雄 ( おす ) のこと、 翠 ( スイ ) とは雌 ( めす ) のことですが、その羽のように青々とした光沢から、輝石の 一種を ヒスイ ( 英語では Jade 、ジェイド ) と呼びました。
[ 6: 指輪 ]前述したように古代の遺跡 ・ 古墳時代の墓から 勾玉 ( まがたま ) に代表される装身具が多く出土していますが、数は少ないものの指輪も出土しています。 指輪の出土例が少ない理由については、首飾り ・ 耳飾り ・ 腕輪 ・ 櫛 ( くし ) などの装身具はみられても、縄文人にとって、指輪は手作業や労働をするうえで 作業の邪魔になるとして製造が控えられていた とする説があります。
写真の石製指輪の材質は 蝋石 ( ろうせき ) ・ 火山灰が固まってできた 凝灰岩 ( ぎょうかいがん ) で、それを削り出して作ったものですが、縄文時代中期 ( 5 千年前 〜 4 千年前 ) のもので、石川県 ・ 金沢市の北塚遺跡から出土したものです。
石製指輪は単なる装身具にとどまらず、集団の有力者または呪術師 ( シャーマン ) の権威を示す道具として、あるいは呪術的 ・ 宝物的意味も持ち合わせていたと考えられます。
右の写真にある マキガイ製の指輪は本州最西端にある山口県 ・ 下関市にある土井ヶ浜 ・ 埋葬跡 ( 墓場の跡 ) から、弥生時代の多数の人骨と共に出土したものですが、この マキガイは本州 ・ 九州付近には生息せず、奄美諸島以南で採取されるものだそうです。 約 2,100 年も昔に縄文人たちは、 どのような 方法でこの マキガイを入手したのでしょうか?。
左の金製指輪は福岡県に属し玄界灘にある孤島の 「 沖ノ島 」、別名を 海の正倉院 ともいわれる小島、に 宗像 ( むなかた ) 神社の沖津宮 ( おきつみや、遠い沖にある やしろ ) がありますが、 そこにある 4〜9 世紀の祭祀遺跡から出土したものです。指輪は 6 世紀 の古墳時代のものとされ、 国宝 に指定されています。 ( 6−1、日本女性の装身具 ) ところで 1563 年に キリスト教を布教のために来日した ポルトガルの イエズス会士 ルイス ・ フロイス ( Luis Frois、1532〜1597 年 ) は、織田信長の厚遇を受け 近畿 ・ 九州各地にキリスト教を広め 1597 年に 64 才で長崎に没しましたが、著書 「 日 ・ 欧 文化比較 」 の中で、
ヨーロッパの女性は耳たぶに孔をあけ、そこに耳飾りをはめこむが、日本の女性は耳たぶに孔もあけないし、耳飾りも付けない。と述べていました。古代の日本に存在した 腕輪 ・ 首飾り ・ 指輪や 金 ・ 銀製品を含む装身具の文化は遙か昔に消滅し、 安土 桃山 ( あづち ももやま ) 時代 ( 1573〜1603 年 ) には、そのかけらも存在しませんでした。 ( 6−2、細川 ガラシャ )
右の女性は織田信長を本能寺に襲い 「 3 日天下 」 を取った、明智光秀の 娘の玉 ( 珠 ) 、洗礼名 ガラシャ ( Gracia 、1563〜1600 年 ) ですが、当時の女性の常として 装身具をまったく付けていませんでした 。 細川忠興 ( ただおき ) の妻となり関ヶ原の戦いに際しては夫が東軍の徳川方についたため、当時大坂 ( 大阪 ) ・ 玉造 ( たまつくり ) にあった細川家の屋敷にいた彼女に、西軍の武将 ・ 石田三成が人質として大阪城へ入るように命じましたが、 ガラシャ はそれを拒否しました 。
自殺を禁じる キリシタンの教えから、 ガラシャ は家臣に槍で自分の胸を突かせ ( 別の説では首を打たせ ) 、38 才の生涯を閉じましたが その際に詠んだ辞世の歌は、
散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれその意味は、花も人も、 散るべき時に 散るからこそ 美しい 、自分も潔 ( いさぎよ ) く 花のように散ろう 。 自害については侍女 「 霜 ( しも )」 による、 秀林院 「 ガラシア 」 御果てなされ候次第のこと 、という記録もありますが、それによれば、
( 中略 ) 同じ 16 日彼の方 ( 石田三成方 ) より、表向きの使い参り候て、ぜひぜひ御上様 ( ガラシャ ) を人質に御出し候 ( そうら ) へ、左 ( さも ) なく候はば ( 軍勢 ) 押しかけ候て( 人質を ) 取り候はんよし申し越し候につき、少齋 ( 留守を預かる家老の小笠原秀清 )・ 石見 ( 河喜多 ) が申されしは、( 石田三成方が ) あまり申し度 ( たき ) まま ( 言いたい放題 ) の使いにて候。 [ 7 : 装身具消滅、その理由とは ]前述したように旧石器時代から装飾品が作られるようになりましたが、縄文時代になると各地に広まり、古墳時代 ( 4 世紀頃 〜 6 世紀頃 ) には最盛期を迎えましたが、 装身具で 身体 を飾る文化 はその後の歴史の中で消滅してしまい、その空白状態が明治維新まで 1100 年間にわたり 続きました。その理由とは、
統一を果たした 大和政権が大化改新の翌年の大化 2 年 ( 646 年 ) に民衆の負担 軽減のために、墳墓 ( ふんぼ ) の大きさや葬儀の規模を身分ごとに制限する、 薄葬令 ( はくそうれい ) を公布しました。 それにより古墳時代の 5 世紀後半に造営された 仁徳天皇陵 ( 全長 486 メートル、三重の水濠で囲まれ、 30 万人 の労働を要した ) のような世界最大の天皇陵や、地方の豪族が勢力を誇示するために作った巨大な前方後円墳などは以後作られなくなり、葬儀も簡素化され 金 ・ 銀 ・ ヒスイ などの装身具の埋葬が禁止されました。 大和政権は政治権力の中央集権化を図ると共に伊勢神宮を皇祖神と定めて、神道の最高継承者としての地位を独占し祭祀権を確立したために、 地方の豪族や アニミズム ( Animism 、原始精霊信仰 ) の指導者が服従するようになり、これまで彼等が権力 ・ 権威を誇示するために身体を飾り、所有していた アクセサリー ・ 鏡 ・ 剣 などの、いわゆる祭祀 ( さいし ) に役割を果たして来た道具も、地方での祭祀が次第におこなわれなくなり不要になりました。
聖徳太子 ( 574〜622 年 ) が 小野妹子 ( おののいもこ、男性 ) を中国の 随 ( ずい ) に派遣し、国交を結ぶと共に随の制度を学ばせ、日本も中央集権化を進めるために外国の制度を取り入れて、 官僚制の基礎となる冠位 12 階を 推古 11 年 ( 603 年 ) に制定しました。 これまでは特定の家柄出身者のみが出世できる氏姓制度のため、身分が低い家柄出身者は出世の チャンスに恵まれませんでしたが、有能な人材や、功績のあった人々は家柄にとらわれずに役人として活躍できる登用制度を作りました。 ちなみに朝鮮半島の高句麗 ( こうくり ) では 12 階制 ・ 同じく百済 ( くだら ) では 16 階制でした。大和朝廷に仕える豪族 ・ 役人を 12 階の位 ( 階級 ) に分け、色分けした冠 ( かんむり ) を授けました。
古事記 ・ 日本書紀 に記された神話の昔から 民族宗教である古代神道では葬送は土葬でしたが、538 年 ( 日本書紀では 552 年 ) に朝鮮半島の百済 ( くだら ) から仏教が伝わると、それに伴って火葬の風習も伝わりました。つまり基本的に 神道では土葬 であり、インドで釈迦が始めた 仏教では火葬 がおこなわれました。 仏教信仰の拡大に伴い 天皇 ・ 皇族 ・ 貴人 などの葬送はやがて神道から仏式の火葬に取って代わり、その傾向は地方の豪族から庶民にも広まっていきました。
[ C−1、日本最初の火葬 ] ちなみに天皇の火葬はその 2 年後に第 41 代 持統天皇( 女帝 、645〜702 年 ) に実施したのが最初で、 その後幕末の第 121 代 孝明天皇までは 火葬が主流 でした。 ところで持統天皇は夫である天武天皇の陵 ( りょう ) に合葬されましたが、火葬され銀製の容器に入れられた女帝の遺骨は、藤原定家 (さだいえ、1161〜1241 年 ) の準漢文体日記である 「 明月記 」 によれば、埋葬から 533 年後の 1235 年に陵が盗掘に遭いました。
女帝の御骨においては、 銀の筥 ( はこ ) を盗むため、路頭 ( ろとう、みちばた ) に棄て奉 ( たてまつ ) りしと言う。塵灰 ( じんあい、ちり ほこり ) と言えども探しだし、拾い集めてもとに戻すべきであろう、ひどい話である。とありましたが、墓どろぼうは エジプトだけではなく、日本にも はびこっていました。 仏教が広まると共に庶民の間にも火葬の風習が少しずつ広がりましたが、鎌倉時代末期の 1330 年頃に成立した 徒然草の 第 7 段 に、 「 あだし野の露消ゆるときなく 」 がありますが、「 あだし 」 とは 「 かはない、むなしい 」 の意味です。
あだし野 ( 化野 ) とは京都市 ・ 右京区 ・ 嵯峨の小倉山のふもとの野原で、 古代には風葬の地、後に墓場 があった所ですが、京都市 ・ 東山区の 平安時代以前から墓地 ・ 葬送の地となっていた鳥部山 ( とりべやま、鳥辺野、とりべの )と共に、歌枕として有名でした。 写真は 「 あだし野 」 に散在していた無縁仏の墓石や仏塔 約 8 千体を集めた、「 あだし野 念仏寺 」 の境内にある墓石群です。
あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山 ( とりべやま ) の煙立ち去らでのみ住み果つる習ひならば、いかにもののあはれもなからん。世は定めなきこそ、いみじけれ。( 以下省略 )土葬と火葬では死後の世界観が大きく異なります。土葬では生前の生活そのままに アクセサリー を遺体に付け、死後の世界でも現世と変わらぬ生活を継続させようと多数の副葬品を埋葬しました。
しかし火葬では死後の世界に対する配慮など全くせず、 死者を飾るための アクセサリー も出番が無くなりました 。絵は慶応 3 年 ( 1867 年 ) に イギリスで出版された書籍、「 日本の マナーと習慣 」 にある 火葬の図 ですが、当時の棺桶は現代のような寝棺ではなく、胎児のように足を折り曲げた座棺用の棺桶でした。
[ C−2、火葬から土葬への、方針転換 ] それと共に明治 6 年 ( 1873 年 ) には太政官布告で 火葬禁止令 を公布しましたが、仏教徒からの反発や衛生上の理由から 2 年後には火葬禁止令を廃止しました。ちなみに大正 4 年 ( 1915 年 ) の全国平均の火葬率は 36.2 パーセント でした。
注:)つまり天皇家では第 41 代 持統天皇以来 第 121 代 孝明天皇までは 千年以上もの間、例外があるものの 火葬 がおこなわれてきましたが、第 122 代 明治天皇からは 土葬になり 、 古代の 風葬 との関連 が指摘される宮中における神道の 殯 ( もがり ) の葬送儀礼 ( 注 : 参照 ) も復活しました。
注 : 1 )、風葬 ( ふうそう ) ![]()
絵は明治天皇の殯宮 「 もがりの みや 」 の スケッチ ですが、棺は図の右側の室内に安置されました。棺の蓋を ロウ で密閉したとしても、遺体の 腐敗 ・ 腐乱 により生じる ひどい屍臭を防ぐことができたのかどうか気になります。神道では最も忌み嫌う 死の穢 ( ケガレ ) ・ 屍臭と恐らくまともに接した 神官 ・ 宮内省 ( 現 ・ 庁 ) の職員は、役目とはいえご苦労なことでした。 昭和天皇の場合は昭和 64 年 ( 1989 年 ) 1 月 7 日に亡くなられましたが、 48 日後 の 2 月 24 日に大喪 ( たいそう ) の礼がおこなわれ、終了後に武蔵野陵に土葬されました。死後のご遺体にはおそらく エンバーミング ( Embalming 、衛生保存処理 ) が施されたと思いますが、エンバーミング に関する 希少な私の経験は ここにあります 。
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そう言われてみれば、そんな気もします。しかし日本女性にとって 1100 年の装飾文化の空白に例外がありましたが、それは髪の クシ ・ かんざし でした。最初は髪の毛をとかすことから始まり、頭 シラミ の駆除に至る実用的な道具に用いられた クシ でしたが、後には髪の アクセサリーになりました。
[ 8: 最後に ]![]()
写真は群馬県 ・ 邑楽郡 ( おうら ぐん ) ・ 大泉町 ・ 古海 ( こかい ) から出土した 国の重要文化財 に指定されている、古墳時代 ( 4 世紀頃 〜 6 世紀頃 ) の 腰掛ける巫女 ( みこ ) の 埴輪 ( はにわ ) ですが、首には 二重の飾り玉 ネックレス ・ 足には足飾り ・ 腕飾り ・ 耳飾り ・ 髪には輪状の髪飾りを付けた盛装をしていました。 旧石器時代に始まった身体を装身具で飾る文化が、7 世紀以後になると消滅して行った理由についてこれまで述べましたが、それ以外の理由についても平安時代の 無常感 や、織田 ・ 豊臣時代以降の利休に代表される茶道の 侘 ( わ ) び や さび ( 寂、古びて趣のあること )、華美とは対局にある芭蕉の静かで落ち着いた 俳諧的境地 、 武士道精神 などの精神文化の影響も考えられます。 ところで私自身に関していえば老妻との 結婚 50 周年 ( 金婚式 ) が過ぎ 、年齢も今年で 78 才になりましたが、生まれてこの方 指輪を はめたことなど 一度もありません 。私だけでなく昭和の 1 桁生まれや、それより古い年代の 男性 で指輪をはめている人など滅多にいませんが、明治の時代になって 1,100 年ぶりに復活した 指輪の文化 が女性はともかく、 男性の間には ほとんど普及しなかったからでした。
しかし過去 20 〜 30 年の間に男女とも指輪はもちろん、若者の間で 耳 ・ 鼻 ・ 唇などに ピアス を付けることが流行るなど、装身具の文化にも変化がおきています。 それだけでなく ある日 老妻に結婚指輪のことを尋ねると、
という返事でした。さては 73 才の老婆のくせに、私の死後に 再婚でもするつもりか !。 若者だけでなく、 指が太い老妻 の 「 結婚指輪 」 に対する意識も、50 年という長い年月と共に大きく変わりました。
生( せい ) あるものは必ず 滅 ( めっ ) し、形 ( かたち ) あるものは必ず 砕 ( くだ ) けん 。という仏教の言葉を 「 失われた指輪 」 に捧げて しばし 無常感 にひたりましたが、 次は私の所に 「 お迎え 」 が来て、 滅すること になりそうです。
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