物語に見る武士の成立( 続き )

[ 6 : 武士の台頭 ]

( 6−1、保元の乱 )

保元 ( ほうげん ) 元年 ( 1156 年 ) に京都に内乱が起きましたが、その原因は皇位継承に関する崇徳 ( すとく ) 上皇 ( 兄 ) と第 77 代、後白河 ( ごしらかわ ) 天皇 ( 弟 ) との対立に加えて、摂政 ・ 関白に任ぜられる高い家柄である 摂関家 ( せっかんけ ) の藤原頼長( よりなが、弟 ) と藤原忠通 ( ただみち、兄 ) との家督相続の争いが結びつきました。

さらに崇徳上皇 ・ 藤原頼長側には武士の 源 為義 ・ 平 忠正が加勢し、後白河天皇 ・ 藤原忠通側には同様に 源 義朝 ( よしとも ) ・ 平 清盛 がそれぞれの武士団を伴って参戦しました。

天王寺

その結果は上皇方が敗北して藤原頼長は戦死し、崇徳上皇は讃岐国 ( 香川県 ) に流罪にされ、その地で 1164 年に亡くなりましたが、御遺体は 79 番札所、金華山 ・ 高照院に安置され、のちに白峰山で荼毘 ( だび、火葬 ) に付されたと伝えられています。

私は 20 年近く前に四国霊場 八十八箇所を歩いて巡る 1,200 キロの 「 歩き遍路 」 をした際に、この寺にも参拝しましたが、寺号を 「 天皇寺 」 とも称していました。

皇位争いと上流貴族内部の権力抗争に端を発した都を舞台とした保元の乱の結果から、 政争の勝敗を決するものは 武力 であること を世人に認識させ、平 清盛や 源 義朝らの武士勢力が急速に中央政界へ進出することになりました。鎌倉時代初期の僧 慈円 ( じえん、関白 ・ 藤原忠通の子 ) が仮名文で書いた歴史書の 愚管抄 ( ぐかんしょう ) によれば、

鳥羽院 ( 鳥羽上皇 ) ウセ ( 崩御 ) サセ給テ後、日本国ノ乱逆ト云コトハヲコリ ( 起こり ) テ後、 武者 ( むさ ) ノ世 ニナリニケルナリ

とありましたが、崇徳 ・ 近衛 ・ 後白河天皇の 三代にわたり院政をおこなった鳥羽上皇の死 ( 1159 年 ) により、以後の日本は 「 乱逆 ( らんぎゃく、謀反 ・ 反乱 ) の世 」 となり 、「 武士の時代 」 の到来 を告げる幕開けになりました。

( 6−2、平治の乱 )

保元の乱の 3 年後の保元 4 年 ( 1159 年 ) の 4 月に年号が平治と改元されましたが、翌年の 1 月にはさらに 「 永暦 」 に改元されました。その理由について鎌倉時代に書かれた作者不明の軍記物である 平治物語 によれば、

世上の動乱によりて 「 此年号、しかるべからず 」 と御沙汰有って、永暦元年とぞ申しける。( 中略 )平治とはたいらぎをさまると書けり。源氏亡びなんずと心有人々申しあへりしが、果たして此合戦出来 ( いでき ) て源家おほくほろびけるこそ不思議なれ

[ その意味 ]
今度の戦乱のために平治の年号が、ふさわしいものではない旨の朝廷からの知らせがあったので、年号を 「 永暦元年 」 に改められました。平治とは世が 平らに治まる ( 平氏が治める ? ) と書きました。心ある人々は源氏が滅びるであろうと話しておりましたが、果たしてこの合戦になり源氏の多くが滅んでしまったことこそ不思議なことです。

保元の乱に勝利した後白河天皇は藤原信西 ( しんぜい ) を重用して親政をおこないましたが、1158 年に第 78 代、二条天皇に譲位して院政を始めると、朝廷内が後白河上皇派と 二条天皇派にそれぞれ近臣 グループを作り、勢力争いをするようになり、保元の乱の論功行賞  [ ろんこうこうしょう、褒美 ( 官位や領地 ) の与え方 ] で多く得た平氏と冷遇された源氏の武士団との対立に発展し、今度は平治の乱が起きました。

夜討ち

藤原信頼と源 義朝は、清盛が熊野詣で京都を留守にした間に挙兵して後白河上皇と二条天皇を幽閉し、さらに前述の論功行賞に関与したとされる藤原通憲 ( 信西 ) を逮捕し斬首しました。右の絵は ボストン美術館所蔵の平治物語絵巻にある 御所 三条殿の夜討ちの図で、藤原信頼とその軍勢が院御所 ・ 三条殿を夜間に襲撃しました。

平治の乱

しかし 平 清盛の計画により上皇は仁和寺に脱出し、激しい 「 都での戦争 」 のすえに藤原信頼 ・ 源氏側は戦に敗れ、 平氏が 権力を握る世になりました 。絵は平治物語絵巻にある後白河上皇が牛車 ( ぎっしゃ ) で移動する様子を描いたもので、弓矢を持つ大勢の武士たちに護衛されています。

平治の乱の結果多くの軍事貴族が淘汰 ( とうた、不適格な者が取り除かれる ) されたため、京都の治安維持 ・ 地方反乱の鎮圧 ・ 荘園の管理の役割も平氏の独占するところとなり、国家的な軍事 ・ 警察権も事実上平氏が掌握しました。清盛はその経済力 ・ 軍事力を背景に朝廷における武家の地位を確立して、永暦元年 ( 1160 年 ) に正三位に叙され、やがて 一門からも公卿 ・ 殿上人が多く出て、平氏政権を形成していきました。

[ 7 : 平家物語 ]

作者不明の軍記物である平家物語は、平氏 一門の栄華と滅亡を描いた一大叙事文学ですが、千人以上にも及ぶといわれる登場人物も殆どが実在の人であり、皇族や貴族、武士、僧侶から僧兵、市井 ( しせい ) の白拍子に至るまで、貴賎を問わず描かれています。

大別すると 「 読み本 」 と 琵琶法師 ( びわほうし ) などの 「 語り本 」 の系統に分かれていますが、 さらに手書きによる写本の過程において、文字 ・ 巻数 ( 12巻 〜 13 巻 ) ・ 文体 ・ 内容などに差を生じていて、世間に流布された流布本 ( るふぼん ) の他に、 「 異本、いほん 」 も数多く存在します。これから引用するものは、江戸時代初期の元和 7 年 ( 1621 年 ) に刊行の流布本です。

( 7−1、出世のための条件 )

今から 40 年ほど昔のこと、源氏鶏太 ( げんじ けいた、作家 ) が書いた 「 サラリーマンのための 十二章 」 などの サラリーマン向けの本が流行りましたが、その当時 サラリーマンの出世の条件として巷 ( ちまた ) でいわれていたことに、

一 引き ( コネ ) 、 二 運 、 三 学問 、 四 バカ 、 五 理屈

というのがありました。 なんといっても コネが 一番重要であり、 二番目には良い上司に恵まれるなどの運の良し悪しがある。三番目にようやく実力 ( 学力 ) がものをいい、四番目が利口ぶらずに時には馬鹿になる処世術も必要で、五番目に理屈をこねる奴は最低で出世しないとする説でした。

( 7−2、祇園女御 )

平 清盛の父である 平 忠盛 ( たいらの ただもり ) は、財力の乏しい朝廷のために寺社建立を請け負ったことや、身辺警護に従事したことから、( 第 72 代、白河天皇 ) 譲位して白河上皇の気に入られ、寵姫 ( ちょうき、愛人 ) であった 祇園女御 ( ぎおんの にょうご ) を妊娠 5 ヶ月の胎児と共に忠盛に下賜されたので妻にしました。

後に女御が産んだ 「 白河上皇の子 」 である 平 清盛 を祇園女御が育てたとする説や、賜ったのは祇園女御ではなく、その妹であるとする説もありました。

現代人の感覚からすれば大会社の会長や社長の愛人を社員が出世のためとはいえ、 「 胎児の オマケ 」 付きで頂き妻にするのには いささか考えものですが、当時は使用済み女性の 「 お下げ渡し 」 がままあり 、もらう方は出世のためにも非常に役立ち名誉とされたので、喜んで頂戴 ( ちょうだい ) しました。 

祇園女御墓

鎌倉幕府が編纂した 1180 年から 1266 年までの公式記録である 吾妻鏡 ( あずまかがみ ) によれば、祇園の女御は下級貴族である 源 仲宗 ( みなもとの なかむね ) の妻と伝えられていて、下級官女として白河院に仕えているうちに院に見いだされ寵愛を受けましたが、出自 ( しゅつじ 、でどころ ) などの詳細は不明です。

当時は祇園の南東の角に堂を構えて住んでいたことから、祇園女御 ( ぎおんの にょうご ) と呼ばれましたが、上の 「 供養塔 」 は 女御の屋敷が付近にあったとされる、円山公園そばの京都祇園堂の建物の前に建っています。

平家物語 巻 六、 祇園女御 の項目には、下記のように記されています。

又 故 ( ふる ) い人の申しけるは、清盛公は只人 ( ただびと ) にはあらず、實 ( まこと ) には 白河の院 ( 注:参照 ) の御子なり 。( 中略 )

さしも御最愛と聞こえし祇園女御を、忠盛にこそ下されけれ。この女御 胎 ( はら ) み給へり。産めらん子、女子ならば朕が子にせん、男子ならば忠盛とりて、弓矢取りに仕立てよとぞ仰せける。

[ その意味 ]
ある古老の言うことによれば 清盛公は普通の身分の人ではなく、実は白河上皇の御子なのです。あれほど寵愛されていたという祇園女御を 平 忠盛に下されましたが、この女御は白河上皇の御子を宿しておられました。

女御の産むであろう子が女子ならば私 ( 白河上皇 ) の子とするが、男子ならば 忠盛が引き取って武士に育てよ、と上皇が仰せになりました。

[ 8 : 清盛が前例のない出世をした理由 ]

[ 8−1、天皇のご落胤 ( らくいん ) 説 ]

月満ちて生まれた子が男の子でしたので 平 忠盛が引き取り育てましたが、別の資料によればこの子が夜泣きすることを白河院 ( 白河上皇 ) がお聞きになって、一首、歌を詠み忠盛に下賜されました。

夜泣 ( よなき ) すとも ただもり ( 忠盛 ) 立てよ末の世に 清く盛 ( さか ) ふる ( える ) 事もこそあれ

[ その意味 ]
その子が夜泣きをしても、忠盛よ大事に育ててくれ。将来 その子がお前の一家を、繁栄させることもあるかもしれないから

そのことから忠盛の長男 ( 実際は白河院の子 ) は 清盛 と名付けられました。

12 才で元服して兵衛佐 ( ひょうえのすけ、正六位下相当 ) になり、18 才で 四位に叙せられ、四位の兵衛佐と申したのを、くわしい事情を知らない人は 「 摂政 ・ 関白になれる家柄の摂家 ( せっけ ) に次ぐ 大臣 ・ 大将を兼ね太政大臣まで昇進できる家柄の 精華家 ( せいがけ ) の人であればこういうこともあろうが 」 と申し上げると、鳥羽院はお聞きになって 「 清盛の血筋は精華家に劣るまい 」 とおっしゃられた。

ところで第 72 代、白河天皇は 8 才のわが子の善仁親王 ( よしひと しんのう ) を皇太子に立て、即日譲位して第 73 代 堀河天皇とし、自らは白河上皇となり幼帝を後見するために自ら政務を執り、いわゆる三代の天皇に対する院政 ( いんせい、注 : 参照 ) を初めておこない、朝廷の政治を上皇院で執りました。

注:) 院政とは
上皇 ( じょうこう ) または法皇 ( 天皇や上皇が出家した場合 ) が天皇に代わり 院庁で政治を行うこと 、又はその政治形態で、1086 年に白河上皇が初めておこないましたが、形式的には第 119 代、光格 ( こうかく ) 天皇 ( 在位、1780〜1817 年 ) 改め光格上皇の死去 ( 1840 年 ) まで、断続的におこなわれました。

  1. 白河院政 : 第 72 代、白河天皇が譲位後に上皇として院政を創始し、1086 年から 1129 年まで、第 73 代、堀河天皇:第 74 代、鳥羽天皇、第 75 代、崇徳天皇の 三代、43 年間にわたり政治の実権を掌握しました。

  2. 鳥羽院政 : 第 74 代鳥羽天皇が白河上皇の死後、1129 年から 1156 年まで、第 75 代、崇徳天皇、第 76 代、近衛天皇、第 77 代、後白河天皇の 三代、27 年間院政を敷きました。

  3. 後白河院政 : 即位の際に崇徳上皇と対立し保元の乱を生じた第 77 代、後白河天皇が第 78 代、二条天皇に譲位し、第 79 代、六条天皇、第 80 代、高倉天皇、第 81 代安徳天皇、第 8 2代、後鳥羽天皇と 1158 年から 1192 年まで 五代、34 年にわたり院政をおこないました。

ところで平治の乱から僅か 7 年後に平 清盛 ( 1118〜1181 年 ) が太政大臣 ( だじょうだいじん ) になりましたが、この間に武士である清盛が手柄を立てるような合戦など 一度も起きませんでした。源氏の勢力を打ち破り追い払った軍事貴族の清盛が、たった 7 年でなぜ破格の 「 従 一位 」 の位階に昇進し、 武士出身で初めて太政大臣 の官位を授かったのでしょうか ?。

その最大の理由とは、白河上皇のご落胤 ( らくいん、おとしだね )、つまり天皇の血筋が流れていたからであり、第二は 「 平治の乱 」 に勝利した結果、対抗する軍事貴族 ( 源氏 ) が滅ぼされ あるいは遠く伊豆 ( 源 頼朝 ) や四国の土佐の地に流刑されたからでした。

( 8−2、妻の妹の おかげ )

それだけではありませんでした。平 時信の娘に 平 滋子 ( たいらの しげこ、後の建春門院 ) がいましたが、絶世の美人と聡明さで有名でしたので、やがて後白河上皇の目に留まり寵愛 ( ちょうあい、非常にかわいがること ) を受けるようになりました。しかし最初は身分の低さのために女御 ( にょご、天皇の寝所に侍る女性のうち 皇后 ・ 中宮よりも格下で、更衣より格上の地位 ) にはなれませんでしたが、後白河上皇の寵愛は他の妃 ( きさき ) とは比較になりませんでした。

やがて滋子は後白河上皇の 第 7 皇子 である憲仁親王 ( のりひと しんのう)を出産しましたが、清盛の政治力により後の第 80 代、高倉天皇になりました。ところがその 滋子 ( しげこ ) と清盛の二度目の妻である 時子 ( 後の 二位の尼 ) が、実は異母姉妹 という関係にありましたが、このことも清盛の異例の大出世に大きく影響を与えました。

さらに娘の徳子が産んだ安徳天皇は生後 1 才 4 ヶ月で天皇に即位しましたが、清盛は外祖父 ( がいそふ、母方の祖父 ) となり、天皇や上皇まで意のままに操り、平氏の政権を樹立するまでになりました。


[ 9 : 清盛に対する罵倒 ( ばとう ) ]

平氏の横暴な振る舞いに対して後白河法皇による院政派の近臣が、平氏打倒の計画を京の東山にある鹿ヶ谷 ( ししがたに ) 山荘でしたところ、摂津の多田源氏の出身である多田行綱が密告したために一味が捕らえられました。

清盛の前に引き立てられた際の西光 ( さいこう、法師 ) が、死を覚悟して清盛を罵倒 ( ばとう ) した言葉が、平家物語巻 二  「 西光 が斬られ 」 の項目にありますが、内容が前述した ( 8−1 ) 項とは異なります。

抑 ( そもそ ) も御辺 ( ごへん、あなた ) は故 刑部卿 忠盛 ( ぎょうぶきょう ただもり ) の嫡子( ちゃくし、長男 ) にておわせしが、十四、五までは出仕もし給はず。故 中の御門 ・ 藤中納言 ・ 家成卿の辺に立ち入り給ひしをば、京童は、例の高平太 ( たかへいだ ) とこそ言ひしか。

然るを保延の頃、海賊の帳本 三十余人搦め進ぜられたりし勧賞 ( けんじょう ) に四品 ( しほん、4 位を賜る ) して、四位の兵衛佐 ( ひょうえの すけ ) と申ししをだに、人皆過分とこそ申し合はれしか。殿上の交 ( まじわり ) をだに嫌われし人の子孫にて、今太政大臣までなりあがつたるや過分ならん。

[ その意味 ]
あなたは昔、十四、五 才までは ( 無位無官で ) 御所に出勤したくても職がなく 、鳥羽上皇の寵臣であった故 ・ 中御門 ・ 中納言 ・ 藤原家成卿 ( こ なかのみかどの ちゅうなごん ふじわら いえなり きょう ) の辺に出入りして官職を得ようとしておられたのを、口うるさい京童( きょうわらんべ ) どもから 高平太 ( たかへいだ、注 : 参照 ) といって 嘲 ( あざけ ) られていたくせに

崇徳天皇の治世、保延元年 ( 1135 年 ) に、父君の忠盛が海賊 30 人を征圧した功績により、四 位に上がり昇殿を許されたとはいえ、( 武士の ) 身分に過ぎたことと公卿たちから嫌われ、 殿上での交際さえ嫌われていたではないか

その忠盛の子の入道殿 ( 清盛 ) が太政大臣になったとは、 ずいぶんと成り上がったことよ

と嘲笑しました。

注:)
高足駄

高平太 ( たかへいだ ) とは、高足駄 ( たか あしだ ) を履く 「 平家の太郎 ( 長男 ) 」 の意味で、高と平を対照させたものです。 源平盛衰記 ( げんぺい せいすいき / じょうすいき、鎌倉時代後期に成立した軍記物 ) によれば、

直垂姿

朝夕に柿 ( 色 ) の直垂 ( ひたたれ ) に縄緒 ( なわお ) の足駄はきて、無様 ( ぶざま ) な姿で通ひしかば、京わらんべ ( 童 ) は高平太 ( たかへいだ ) と言ひて笑ひしぞかし。

と記されていましたが、絵は子供用の直垂 ( ひたたれ ) 姿です。

[ 10 : 清盛の悪行 ]

N H K の大河 ドラマで 平 清盛が放映されるようになってから清盛は一躍 ( いちやく ) 脚光を浴び、清盛を題材にした本が書店にも並ぶようになりましたが、歴史上の人物には毀誉褒貶 ( きよほうへん、悪口と褒めること ) が付きものですが、戦前の教育を受けた私にとって清盛のことを褒めた話など、聞いたことがありませんでした。

平清盛像

左は京都の六波羅密寺 ( ろくはらみつじ ) にある重要文化財の 平 清盛像で、鎌倉時代の作品です。寺は現 ・ 京都市 ・ 東山区内にあり、天台宗 ・ 空也 ( くうや ) 派の祖である空也上人 ( 903〜972 年 ) が、京都に疫病が流行したときに西光寺を建てて平癒 ( へいゆ ) を祈りました。

後に六波羅密寺 ( ろくはらみつじ ) と呼ばれましたが、代々の平氏によって六波羅の地に屋敷が建てられ、平氏の滅亡 ( 1185 年 ) まで平氏の本拠地になりました。

清盛についてそれ以外の面では、 1167 年に 瀬戸内海の呉市と音戸町倉橋島との間にある幅 90 メートルの音戸の瀬戸を開削した伝説や、 1168 年に安芸の宮島に厳島 ( いつくしま ) 神社を建て、お経を奉納したことは知ってはいましたが。

  1. 平氏に対する批判 ・ 中傷を防ぐため、14〜16 才の童児 300 人を 禿髪 ( かぶろ ) と呼ばれる髪形にして、都中を歩き回らせ平氏の悪口を言うものがあれば、直ちに 平 清盛の邸がある六波羅 ( ろくはら ) に報告し、押しかけて家財道具を没収して家を取り壊し、家人を連行して処罰しました。

  2. ある時 孫の平 資盛 ( たいらの すけもり、13 才 ) の 一行が摂政の藤原基房 ( ふじわら もとふさ ) の行列の車と道ですれ違った際に、孫が下馬の礼をとらなかったと相手からなじられましたが、清盛はこれを怨み、武力を背景に後日 ・ 基房の参内の途中を襲い供の者を踏みにじり、髻 ( もとどり ) を切るなどの意趣返しをさせました。

  3. 鹿ケ谷 ( ししがたに ) において平家打倒の密議がおこなわれたのを知った清盛は、一味を捕縛し斬首 ・ 遠島を含む過酷な処断をしました。

  4. 温厚な人物であった長男の重盛が死ぬと清盛は横暴さを一段と強め、1179 年に気にくわぬ後白河上皇側近や関白以下の公卿 39 人 を解任し、後白河上皇を鳥羽殿に幽閉し、以後清盛の独裁となりました。

  5. 清盛は娘の徳子を高倉天皇の妃に入内させ、官職を平氏の一門で独占しました。

  6. 京の都から反対を押し切り 1180 年 6 月に福原 ( 神戸市周辺 ) に都を移しましたが、5 ヶ月後に再び京に戻りました。

    大仏殿炎上

  7. 南都 ( 奈良 ) の僧が清盛に服従しない為、 1181 年に五男の重衝 ( しげひら ) に 「 悪徒を搦 ( から ) め、房舎を焼き払え 」 という命令を出したため、奈良の 東大寺大仏殿 ・ 興福寺などの有力な寺院が焼け落ちて、避難する僧侶 ・ 住民など、数千人が焼死しました。


[ 11 : おごれる者 久しからず ]

平 清盛は下層軍事貴族 ( 武士 ) の低い身分から 前例の無い出世して、1167 年には 「 従 一位 」 の位階に昇り 「 太政大臣 」 になりましたが、一族も共に立身出世を極め長男が 内大臣の左大将、次男が 中納言の右大将、三男が 三位の中将、長男の孫が 四位の少将など公卿 16 人 ・ 殿上人 30 人以上にも及びました。 清盛の義弟であり 大納言の 平 時忠は、

この 一門にあらざらむ人は、皆 人非人 ( にんぴにん ) なるべし

[ その意味 ]
平氏の 一門でなければ、人であっても人とは認められない。

と豪語しました。平家物語の冒頭に有名な文章、

沙羅双樹 ( しゃらさうじゅ ) の花の色、盛者必衰 ( じょうしゃ ひっすい ) の理 ( ことわり ) を顕す。 驕 ( おご ) れる者久しからず、只 春の世の夢の如し。

がありますが、当時の日本には 66 箇国ありましたが、そのうち平氏の知行 ( ちぎょう、国務を執り行う ) 国は 30 国以上にも及び、平氏の一門のうち諸国の受領 ( ずりょう、国司 ) ・ 衛府 ( えふに所属する武官 ) ・ 諸司 ( 多くの役所の役人 ) などは、合計 60 人以上になりました。

しかし平氏による権力の独占は長く続くことなく やがて地方の武士 ( 在地系武士 ) に離反され、平治の乱の結果 1160 年以来 平氏によって伊豆国 ・ 狩野川 ( かのうがわ ) の中州にある蛭ヶ小島 ( ひるがこじま ) に、14才の時から 20 年間流罪にされていた 源 頼朝は、治承 4 年 ( 1180 年 ) 8 月に後白河天皇の第二皇子の 以仁王 ( もちひとおう ) の令旨 ( りょうじ、皇太子などの命令を下達する文章 ) に応じて、源 頼政や信濃の木曽義仲などと共に平氏打倒の挙兵をしました。

マラリア患者の清盛

1181 年に 清盛は 熱病に冒され 、 64 才で死亡しましたが 従一位太政大臣になってから 14 年後のことでした。おごる平氏にとって、これが滅亡への序曲となりました。絵は水風呂に入り、熱を冷まそうとする清盛。

二位の尼

右の絵は壇ノ浦の海戦で平氏が滅んだ際に、孫に当たる第 81 代、安徳天皇 ( 数え年、8 才 ) に 「 波の底にも都の侍 ( さぶろ ) ふぞ 」 ( 平家物語、第11巻、先帝の御入水 ) と抱き参らせて入水 ( じゅすい ) した 二位の尼 ( 平 時子 ) と安徳天皇です。

[ 12 : 武家政権の発足 ]

( 12−1、治承 ・ 寿永の乱 )

治承 ・ 寿永 ( じしょう じゅえい ) の乱とは、治承 4 年 ( 1180 年 ) に平家打倒のため 源 頼朝が伊豆で挙兵してから、寿永 4 年 ( 1185 年 ) に平氏一門が長門 ( ながと ) 国 ・ 赤間関 ・ 壇ノ浦 ( 現在の山口県 ・ 下関市 ) で滅亡するまでの、源氏と平氏による 5 年にも及ぶ戦闘 ( 内乱 ) をいいますが、話が長くなるので戦については省略します。

平氏の滅亡にいたる 「 一ノ谷 」 ・ 「 屋島 」 ・ 「 壇ノ浦 」 などの重要な戦闘の際に源氏の勝利に大きく貢献したのは、頼朝の異母弟に当たる 源 義経でした。

やがて頼朝は相模国の鎌倉を本拠地と定め、御家人 ( ごけにん ) を統率 ( とうそつ ) するために侍所 ( さむらいどころ ) を設け、1184年には幕府の政務を処理する役所の公文所  [ くもんじょ、後の政所 ( まんどころ )] 、問注所 ( もんちゅうじょ、訴訟関係機構 ) を設け東国に対する武家政権の支配確立に努めました。


( 12−2、武家政治の開始時期 )

平氏の滅亡後、武家政権による政治の開始時期については、12 世紀後半の 源 頼朝による鎌倉幕府の設立からとする説が 一般的ですが、中には 平 清盛による平氏政権からとする説もあります。しかし問題になるのは鎌倉幕府の設立時期 ( つまり武家政権発足 )をいつにするかで、いろいろな説がありました。

  1. 1180 年とする説によれば、源頼朝が坂東をほぼ制圧し、鎌倉入りをした時。

  2. 1183 年とする説によれば、この年に朝廷が、幕府の東海道、東山道の土地支配権を認める宣旨 ( せんじ、天皇の命を伝える文書 ) を出した時。

  3. 1185 年とする説によれば、守護 ・ 地頭を設置する権利を得た時。

  4. 1190 年とする説によれば、朝廷が頼朝の諸国守護権を認めて右大将に任じた時。

  5. 1192 年とする説によれば、朝廷が頼朝を征夷大将軍 ( せいい たいしょうぐん )に任じた時であり、これ以後 征夷大将軍は幕府政権の長である者の 「 称 」 になりました。

以上を根拠にしていますが、これ以後 武家政権は、鎌倉 ・ 室町 ・ 安土桃山 ・ 江戸時代と 約 680 年間にわたって存続し、 慶応 3 年 ( 1867 年 ) の徳川慶喜による大政奉還で幕を閉じました。


( 12−3、三代で断絶した源氏の幕府 )

鎌倉幕府系図

清和源氏の嫡流である頼朝は平家を倒すと共に、源氏の一族 [ 粗暴だった木曽 ( 源 ) 義仲 ] をも彼の持ち前の 猜疑心 ( さいぎしん、疑り深い心 ) の強さから 、亡き者にしました。たとえば 頼朝の異母弟で、源 義経の異母兄に当たる 源 範頼 ( のりより ) も、源氏一門として、鎌倉幕府において重要な地位にいましたが、頼朝に謀反の疑いをかけられて殺されました。

頼朝は京都にいた義経を殺すため御家人の土佐房昌俊 ( とさのぼう しょうしゅん ) と兵 80 騎を送りましたが、「 堀河夜討ち 」 に失敗して土佐房は殺されました。 平家物語の巻十二、に 「 土佐房斬られ 」 の項目がありますが、そこには頼朝が土佐房に対して与えた言葉があります。

ここに土佐房昌俊を召して、わ僧 上 ( のぼ ) って物詣 ( ものもう ) でする様で、謀 ( たばか ) って討てと宣 ( のたま ) へば( 以下省略 )

[ その意味 ]
ここに ( 僧侶 ) の土佐房を呼んで、「 和僧 ( わそう、僧侶を親しみを込めて呼ぶ名 ) は寺社へ参拝に来たようなふりをして上京し、だまして義経を討て 」 と言われました−−。

身内の実力者を常に危険視し排除する性格から 、頼れる源氏一族が周囲にいなくなり、相模川橋の供養の帰途に頼朝が落馬したのが原因で 1199 年に不慮の死を遂げた後は、北条氏から娶 ( めと ) った北条政子の父の時政を初めとする、北条一門に簡単に幕府の実権を奪われてしまいました。

頼朝の長男でした 二代将軍 頼家は将軍になったものの北条氏に排除され、後に伊豆の修善寺に幽閉されて 1204 年に殺されました。次男の 三代将軍実朝 ( さねとも ) は、 1219 年に 二代将軍源頼家の次男の公暁 ( くぎょう ) に 「 親の仇として 」 暗殺され、直後に公暁も殺されました。

このようにして頼朝の死後 僅か10年、三代 で清和源氏の嫡流の将軍は断絶しましたが、その後は京都から招いた 「 飾り物 」 に過ぎない将軍を据え、北条氏が政務を統括する最高の権力者である 執権 ( しっけん ) を独占的に世襲することにより、鎌倉幕府を支配しました。

ところで 中国の 「 ことわざ 」 に 、

猟犬と主人

狡兎 ( こうと ) 死して走狗 ( そうく ) 煮らる。

[ その意味 ]
すばしこい ウサギ が捕らえて死ぬと、ウサギ狩りに使われた猟犬も 用がなくなり、煮て食われる

というのがありましたが、鎌倉にいる 戦争下手の総指揮官の頼朝 のために平氏と懸命に戦った 戦上手 ( いくさ じょうず ) の義経 も、平氏が滅びるとたちまち彼に裏切られ、冒頭に述べたように 1189 年に奥州平泉で藤原泰衡 ( やすひら ) に攻められて命を落としましたが、源氏の系統を引く鎌倉幕府が僅か 三代で途絶えたのは、 猜疑心の強い 頼朝の自業自得でした


( 12−4、四代で断絶した平氏の場合 )

はかない運命をたどったのは源氏の子孫だけでなく平氏の末路も同じ事で、 「 平家物語 」 巻十二、の 「 六代 斬られ 」 には 平 清盛の曾孫 ( ひまご ) に当たり、伊勢平氏出身で軍事貴族の草分けでした 平 正盛 ( まさもり ) から数えて 六代目に当たることから六代 ( ろくだい ) と呼ばれた、平氏嫡流の最後の人物である 平 高清 ( たいらの たかきよ ) がいました。 

平氏滅亡後に平氏の子孫に当たる男子は一人残らず捕らえられて殺されましたが、当時 12 才でしたので当然殺されるはずのところ、乳母 ( めのと ) の女房 ( 貴人の家に仕える女性 ) が頼朝と親しい高尾山神護寺 ( じんごじ ) の文覚 ( もんがく ) 上人に命請いを頼み、文覚の奔走で弟子になることで頼朝から助命されました。

六代は出家して文覚の弟子になり妙覚と号しましたが、三位禅師 ( さんみの ぜんじ ) とも呼ばれました。頼朝の死後文覚が流刑にされた後、 妙覚は再び鎌倉幕府により捕らえられました。前述の「 六代 斬られ 」 によれば、

さる人の子なり、さる者の弟子なり、たとひ頭を剃り給ふとも心をばよも剃り給はじ

六代の墓

[ その意味 ]
六代は清盛の嫡孫 ( ちゃくそん、跡取りの孫 ) である 平 惟盛 ( これもり ) の子であり、文覚上人の弟子です。たとえ出家していても、心 ( 源氏に対する復讐心 ) まで決して無くしたわけではないでしょう。

として、平家の嫡流の血統を絶つために 三位禅師は関東へ送られ、神奈川県 ・ 厨子市にある田越川 ( たごえがわ ) の辺で斬られましたが、逗子市 ・ 桜山 ・ 字柳作にある塚が 「 六代御前の墓 」 とされます。平家物語の巻十二、の最後には、

三位の禅師 ( さんみの ぜんじ ) 斬られて後、平家の子孫は長く絶えにけり

とありましたが、清盛の死後約 20 年で平氏の嫡流も永久に滅亡したことが語られました。

菩提を弔う

ところで 1185 年の 壇ノ浦 の海戦で、わが子 安徳天皇 ( 7 才 ) が自分の母親の二位の尼と共に入水したのを見て、清盛の次女である建礼門院徳子 ( 1155〜1213 年 ) も海に飛び込みましたが、源氏の兵士に助けられ京都大原の寂光院で出家し、我が子を初め平家一門の菩提を弔う生活を 30 年ほど送り、58 才でこの世を去りました。


[ 13 : 武家の最高権力者は、なぜ天皇にならなかったのか?]

米 コロンビア大学の歴史学教授 キャロル ・ グラック ( Carol Gluck ) によれば、歴史家が明確に分析できない事柄はどこの国にも存在するが、アメリカの人種問題、ドイツがおこなった ユダヤ人に対する ホロコースト ( 大虐殺 )、日本の天皇制などがそれであるとしています。

( 13−1、天皇になろうとした者 )

過去の歴史をみると天皇になろうとした者が一人もいなかったわけではありませんでした。独身の第 48 代、称徳 ( しょうとく ) 女帝と密接な関係を持ち、法王という ポストを新設してもらった 弓削道鏡 ( ゆげの どうきょう、?〜772 年 ) や、みずから新皇 ( しんのう、新しい天皇 ) と称した ( 2−2 ) で前述の 平 将門 ( たいらの まさかど、? 〜 940 年 ) 、そして三番目には 1397 年に 例の金閣寺 ( 正式名は 鹿苑寺、ろくおんじ ) を建てた室町幕府の第三代将軍、 足利義満 ( あしかがよしみつ、在職、1368〜1394 年 ) がいました。

足利義満

彼は死後に 鹿苑院 太上天皇 ( ろくおんいん だいじょうてんのう ) の諡号 ( しごう、おくり名 ) を朝廷から賜りましたが、太上天皇とは皇位を後継者に譲った天皇に贈られる尊号、またはその尊号を受けた人のことです。 将軍に過ぎない義満の諡号 ( しごう、おくり名 ) に、朝廷がなぜ 太上天皇 の尊号を贈与したのかは不明です。

高 師直

室町幕府の創設から幕政に参加し将軍の執事を務めた 高 師直 ( こうの もろなお ) の弟に、 軍事 ・ 警察を司る侍所頭人 ( さむらいどころ とうにん ) を務め、兄 師直と共に幕府を支えた武将の 高 師泰 ( こうの もろやす ) がいました。

右の絵は、一時 北条尊氏 ( ほうじょう たかうじ ) のものとされましたが、最近の調査では執事の 高 師直 ( こうの もろなお ) か、あるいは弟の 高 師泰 ( こうの もろやす ) のものとされるようになりました。

弟の 高 師泰 が 天皇について不要論 を述べた言葉が、 1371 年頃に成立した軍記物の 太平記、第 26 巻 の中の 妙吉侍者事、付 秦始皇帝事 ( みょうきち じしゃのこと つけたり しんの しこうていのこと )の項目にありますが、「 妙吉 」 なる人物は足利尊氏の弟で副将軍といわれた足利直義が帰依 ( きえ ) した禅僧でしたが、高 師直 ・ 師泰兄弟からは軽蔑されていました。

妙吉は法話の中で中国の故事を引用して足利直義に、高師直 ・ 師泰兄弟のことを讒言 ( ざんげん、悪口をいう ) しましたが、このことが足利尊氏 ・ 足利直義の兄弟が、南北朝時代の 1350 年から 1352 年にかけて室町幕府の内部抗争により互いに戦った、 観応の擾乱 ( かんのうの じょうらん ) の遠因となったと太平記に記されています。

この師泰 ( もろやす ) が言いけるは、

都に王という者あって、若干 ( そこばく ) の所領を塞 ( ふさ ) げ、内裏 ・ 院御所とてあれば、馬より下 ( お ) るるもむつかしし。王はあるとも武家こそ諸事を相計 ( あいはか ) らへ。これなくとも事かくまじ。

もしなくて事かけば木を以て造るか、金 ( かね ) にて鋳 ( い ) て置くか、二つの中を過ぐべからず。誠の院 ・ 国王をば何方 ( いづかた ) へも流し捨てたらんにぞ、天下のためも能 ( よ ) く、公平にてあらん

と、口も恙 ( つつが ) なくぞ申しける。

[ その意味 ]
この師泰がつね日頃言ったことは、

都に王という者がいて多くの所領を占有し内裏 ( だいり ) ・ 院御所 ( いん ごしょ ) という所があるので、馬から下りることも煩 ( わずら ) わしい。王はいても幕府がすべて計らっているではないか。

王はなくとも不便はあるまい 。もしなくて不便だというのなら、( 王を ) 木で造るか金属で鋳て安置するか、二つのうちから選べばよい。 本当の院 ・ 国王は、どこへでも流して捨てるのが天下のためにもよいことで 、えこひいきがないだろう。

  と大口をたたくのであった。

( 13−2、 革命思想 とは無縁の日本民族 )

武士による初めての政権である鎌倉幕府を開いた源 頼朝や足利幕府 ( 後の室町幕府 ) を開いた足利尊氏を初め、織田信長 ・ 豊臣秀吉 ・ 徳川家康など武力により日本の最高権力者の地位を獲得した者たちは、その気になれば京都御所に住む無防備な天皇を引きずり下ろし、自らが天皇の地位に就くことなど極めて容易なはずでしたが、彼らはそれをしませんでした。

その理由について 一説によれば、

  1. 日本民族固有の伝統的宗教である、神道 ( しんとう ) の祭祀 ( さいし、神々や先祖をまつること ) を司る天皇に対して、他の権力者とは異なる 畏敬 ( いけい、心からおそれ敬う ) の念を抱いていたから

  2. 源頼朝を初め新しく支配者になった者が、それまで 「 治天の君 」 ( ちてんの きみ、実権を持つ天皇家の家長 ) であった天皇やその一族を追放し、あるいは中国のように前王朝の者を徹底的に探し出し皆殺しにすることなど、日本人にとって 思想的に受け入れられなかったから

  3. 律令制度の下で存在でした軍団 ・ 健児の制度が 10 世紀末には国家財政の困窮から廃止され、それ以後直属の軍事力を持たない天皇は、支配者にとって 軍事的脅威とは無縁の存在であったから

  4. 「 叙任権 ( じょにんけん、注 : 参照 ) 」 だけを持つ ( 注 : 参照 ) 「 飾り物 」 としての天皇を利用し、実際の政治を幕府がおこなうという、鎌倉幕府開設以来の権力構造が、他の権力者との摩擦や抵抗が最も少なく、政権基盤を強固に確立するまで、 日本の政治形態に最適であったから

以上の理由により鎌倉幕府の開設から 1867 年の徳川幕府による大政奉還まで、 600 年以上もの間、天皇は「 飾り物 」 の地位に留まり続けました。ちなみに天皇が神聖視され神格化されたのは明治維新以後のことであり、それまでは支配階級を除く一般の日本人にとって、京都御所に住む天子様 ( 天皇 ) のことなど、千年もの間その存在をほとんど知られない状態でした。

叙任権 ( じょにんけん )
徳川幕府は 1615 年に 17 条からなる、 禁中並公家諸法度 ( きんちゅう ならびに くげ しょはっと ) を定めて、天皇 や 公家 ( くげ ) 、僧侶などの遵守すべき規則を定めましたが、長年朝廷が持っていた位階を授け 官に任ずる叙任権などもこれにより統制されました。

幕府の定めた法度 ( はっと、規則 ) が、天皇の 勅許 よりも優先する として、幕府と朝廷との間で 1627 年に 「 紫衣事件 」 ( しえじけん ) や、1788 年には 「 尊号一件 」 ( そんごう いっけん ) などの対立混乱が起きて、第 108 代、後水尾天皇 ( ごみずのお てんのう ) が幕府に事前通告せずに退位する騒ぎにまで発展しました。

これまで 「 法の外 」 にあった天皇が、徳川幕府の定めた法 ( 法度 ) の適用を受ける事態になったことは、朝廷の官職のひとつに過ぎなかった征夷大将軍とそれを頂点とする幕府が、 任命権者である天皇 よりも上位に立った事 を意味しました 

かつては下級貴族の出身であった武士が天皇よりも上位に立つ事態になるとは、江戸時代以前には到底考えられない事でした。

東京遷都行列

ところで明治維新になると新政府は天皇のことを知らない国民に対して、 徳川幕府の 将軍様よりも偉いことを 、教育する必要があったといわれています 。 明治元年 ( 1868 年 ) に徳川幕府のあった江戸を東京と改称し、翌明治 2 年 ( 1869 年 ) に京都から東京に遷都しましたが、絵は京都から東京に向かう行列の様子で、明治天皇が乗る鳳輦 ( ほうれん、注 : 参照 ) が右に見えます。

注 : 鳳輦 ( ほうれん )
鳳輦

鳳輦 ( ほうれん ) とは屋根の上に中国の想像上の瑞鳥 ( ずいちょう、めでたい鳥 ) である、金色の鳳凰 ( ほうおう ) を飾り付けた輿 ( こし ) のことで、天皇専用の乗り物です。


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