「お迎え」 がやって来る( 続き )
[ 8 : 翁草 ( おきなぐさ ) ]翁草といっても同じ名前の草花の件ではなく、江戸時代中期に京都奉行所の与力 ( よりき ) を勤めた神沢貞幹 ( かんざわ ていかん ) [ 号を、杜口 ( とこう )、 1710〜1795 年 ] が書いた随筆集に、 「 翁草 」( おきなぐさ ) がありましたが、内容は歴史 ・ 地理 ・ 文学 ・ 美術 ・ 宗教 ・ 京都の事件 ・ 風俗など多岐にわたっています。![]() [ 原文の抜粋 ] 其罪蹟は兄弟の者、同じく其日を過し兼ね、貧困に迫りて自害をしかゝり、死兼居けるを、此者見付け、とても助かるまじき体なれば、苦痛をさせんよりはと、手伝ひて殺しぬる其科により、島へ遣はさるゝなりけらし、其所行もとも悪心なく、下愚の者の弁へなき仕業なる事、吟味の上にて、明白なりしまゝ死罪一等を宥められし物なりとぞ、彼守護の同心の物語なり。 [ 現代語訳 ] その ( 流人の ) 罪科については、兄弟の者が同じくその日暮しの貧困に行き詰まって自殺をしかかり、死にかねているのを、この者が見つけ、とても助かりそうもない様子だったので、 「 苦痛を味わわせるよりも 」 というので手伝って殺した。その科 ( とが ) により島流しになったようだ。 その行為はもともと悪心なく、下々 ( しもじも ) の無知な者の無分別の仕業 ( しわざ ) であることは、お取り調べの上で明白であったので、死罪 一等を減じられた由 ( よし )。 これはその護送の町奉行同心が物語ったことである。( 8−1、 高瀬舟 と流人船 ) ![]() ![]() 注 : 流人船 ( るにん ぶね ) 江戸後期の北方探検家であった、近藤重蔵 ( こんどう じゅうぞう ) の長男であった近藤富蔵 ( とみぞう、1805〜1887 年 ) は、父のために人を斬り殺して八丈島に流刑にされ、そこで 53 年間の流人生活を送ったが、その間に八丈島の百科事典ともいうべき 「 八丈実記 」 72 巻を書き残した。上図の流人船はその中に記された絵図である。彼は明治新政府による赦免 ( しゃめん、罪を許すこと ) により一旦は本土に戻りましたが、その後 再度八丈島に戻りそこで明治 20 年 ( 1887 年 ) に 83 才で死亡しました。 ( 8−2、鴎外の小説、「 高瀬舟 」 の抜粋 ) ある日のこと、同心の羽田庄兵衞は弟殺しの罪で遠島を申し渡された喜助という 三十歳ぐらいの罪人を護送しましたが、その男がこれから島流しになるというのにその表情が嬉々として明るいのを奇妙に思い、その男にその理由を尋ねてみました。 喜助は、カミソリを飲み込んで自殺を図って苦しんでいる弟を見るに見かね、その喉から カミソリを抜き、大量に出血させることで安楽死させたことを同心に淡々と語ったのでした。 いつも僅かの稼ぎで かつかつに 「 かゆ 」 をすすって露命 ( ろめい、露のように はかない命 ) をつないでおりましたが、このたびの入牢の間は結構なお養い ( やしない、食事 ) をいただいてありがたく存じました。 このたび銭 200 文を下され、島へ遣わされますとは、なんという果報でございましょう。もともと妻子や親類もなく、苦しい世を渡りかねておりましたので、都には名残りはございません。この話を聞いた同心は、 喜助は弟の苦を見るに忍びなかった。弟を苦から救ってやろうと思って弟の命を絶ったが、それが罪であろうか ?。殺したのは罪に相違ないが、それが 弟を苦から救うためであった と思うと、そこに疑念が生じてどうしても解 ( げ ) せない。 ( 以下省略 ) と日誌に記したのでした。 [ 9 : 名古屋の安楽死事件 ]昭和 31 年 ( 1956 年 ) 10 月 ごろ、父親の S は 脳溢血で倒れ 、以来ずっと病床にありましたが、昭和 34 年 10 月頃から 全身不随 となり、食事はもとより大小便の始末に至るまですべて家人の手を煩わすこととなりました。その後 衰弱甚 ( はなは ) だしく、同人の診察にあたっていた医師も昭和 36 年 ( 1961 年 ) 8 月 20 日頃には、父親 S の余命も 「 おそらくあと 7 日か、よくもって 10 日だろう 」 と家人に告げました。 これに先立つ同年 7 月初めから容態の悪化とともに体を動かす度に激痛を訴え、 「 早く死にたい 」、「 殺してくれ 」 と大声で口走るようになりました。長男は耐えられない気持ちに駆られ、同年 8 月 27 日に牛乳 ビンに 有機 リン殺虫剤 を混入し、事情を知らない母親の M 子がそれを父親の S に牛乳を飲ませた結果、有機 リン中毒により死亡させました。 ( 9−1、判決 ) 一審の名古屋地裁では、長男に 刑の重い尊属殺人罪 ( 親殺し、注 : 1 参照 ) を適用して 懲役 3 年 6 ヶ月の実刑 を宣告しましたが、昭和 37 年 12 月 22 日の 名古屋高裁 ・ 二審の判決ではこれを破棄して、より軽い嘱託殺人罪 ( 注 : 2 参照 ) で懲役 1 年、執行猶予 3 年 としました。注 : 1、刑法 200 条 ( 尊属殺人 ) ( 9−2、安楽死の構成要件 ) 名古屋高等裁判所の判決で、日本で初めて安楽死の違法性 阻却要件 が 6 項目提示されました。つまり下記の 6 項目に全て該当すれば、 殺人の違法性が阻却 ( そきゃく、妨げ しりぞける ) される 、つまり結果として安楽死が許容されるとするものでした。
![]() [ 10 : 徒然草に見る 死生観 ]鎌倉時代末期から南北朝初期の歌人で 随筆家の吉田兼好 ( けんこう、1283 頃〜1350 年頃 ) が書いた徒然草の、第 155 段 「 世に従はん人は、先ず機嫌 ( きげん、物事の都合よくゆく時機 ) を知るべし 」 には、以下の文章があります。
( 10−1、田舎における、昔の死に方 ) ![]() ![]() ( 10−2、その頃の伝染病 ) 私が住んだ村には畑の真ん中に 避病院 ( ひびょういん ) と呼ばれた 伝染病の隔離病舎 があり、廊下沿いに 6 畳の和室 4 部屋が並び、トイレ、自炊室もありましたが 普段は無人でした。 昭和 20 年の敗戦前後は衛生状態の悪さから赤痢 ・ コレラ ・ 腸 チフス などの患者が全国的に発生しましたが、伝染病予防法による現 ・ 第 三類感染症 の患者は避病院に収容されました。そこでは保健所から派遣された職員の指導のもと、家族の 1 人が泊まり込みで介抱し町から訪れる医師の手当てを受けました。 総務省統計局政策統括官・統計研修所の データによれば、 昭和 21 年 に発生した主な伝染病の患者数、及びその死者数は下表のとおりですが、当時の伝染病による 死亡者数の第 1 位 は感染すれば有効な治療薬がなく、戦中戦後の食料難による栄養状態の悪さも重なり、 死病といわれた結核 ( 主に肺結核 ) で、安静にすることだけが唯一の治療法でした。 ちなみに結核に対する初の特効薬である ストレプトマイシン が アメリカで発見されたのは戦争中の昭和 19 年 ( 1944 年 ) のことであり、日本で発売されたのは昭和 25 年 ( 1950 年 ) からで、結核予防法による公費負担の対象となったのは、昭和 26 年 ( 1951 年 ) 10 月 のことでした。 なお 患者数の最多 は江戸時代から日本の社会に はびこっていた 性病 でしたが、詳しくは ここにあります 。 東京の小学校には見られませんでしたが、村の小学校には トラホーム ( Trachom、ドイツ語、英語では トラコーマ、Trachoma 伝染性結膜炎 ) を患い 、「 目やに 」 を出した児童の姿は珍しくありませんでした。
( 10−3、死者の埋葬 ) ![]() ![]()
その当時、 村での死者は現在のように 寝棺 ( ねかん ) に入れて火葬や土葬にするのではなく、膝を抱えた 「 体育館座り 」 の姿で 座棺 ( ざかん ) に入れて上から天蓋の カバーを被せて運び、部落の共同墓地に土葬されました。 ![]()
注:「 未必の故意 」 とは ( 10−4、リビング ・ ウィル ( living will、生前の意思 ) 日本では腎臓の 「 人工透析 」 をする人が 30 万人、胃に開けた孔から チューブで栄養をとる 「 胃ろう 」 が 40万人、自力呼吸ができずに人工呼吸器の使用者が 3 万人いるといわれています。 我々にとって馴染みのある言葉に 遺言 がありますが、その効力の発生時期については民法 985 条の規定によれば、 「 遺言は、遺言者の 死亡の時 からその効力を生ずる 」 とあります。では生きている間に 「 死に至る過程 」 について自分の意志を明確にするにはどうすればよいのでしょうか?。 ![]()
[ 11 : 医療用麻薬使用の後進国 日本 ]末期 ガンの患者にとって絶え間なく襲う激しい苦痛から逃れるために 「 殺してくれ 」 と叫んでも、鎮痛治療の後進国である日本ではその苦しみを緩和させることができなかったし、現在も少しは改善されたものの、諸外国に比べて 著しく遅れた状態にあります 。 論より証拠、下表は国連の経済社会理事会に属する、国際麻薬統制委員会 ( I N C B 、International Narcotics Control Board ) の報告書に基づく、いずれも アヘン の成分から合成した モルヒネ ・ フェンタニ ・ オキシコドン の消費量の合計 ( 100万人 / 日 当たりを モルヒネ消費量に換算したもの で、単位は グラム )。
上の表から日本における医療用麻薬の使用量が外国に比べて 最低である ことが分かりますが、その理由とは日本の医師が モルヒネをなるべく使用しないように、大学の医学部で 時代遅れ の教育を受けて来たからでした 。 上表の 2007 年 〜 2009 年の値を見ると日本の医療用麻薬の使用量を 1 とすれば、アメリカでは 18.3 倍 、カナダでは 16.8 倍 、ドイツでは 14.5 倍 隣国の韓国でも 1.3 倍 ですが、日本人は痛みに対して 鈍感 なのでしょうか?。 いいえそうではなく、患者はこれまで医師から痛みを我慢させられて来ましたし、今後も我慢させられようとしているのです。 なにしろ我慢や忍耐が 美徳とされるお国柄 ( くにがら、国の文化 ・ 習慣などの特色 ) ですから。 私はこれまでの人生において、若い時の虫垂炎 ( 盲腸炎 ) と 10 年前の前立腺肥大と 2 回の入院手術を受けましたが、局部麻酔が切れて痛みを感じるようになっても、 手術したのだから痛いのは当たり前 として、医師から鎮痛の錠剤すら与えられませんでした。 医師にとって麻酔薬とは 手術の際にのみ使用するもの であり、手術後の患者の痛みを軽減することなど、もともと 眼中に無かった からでした。 ( 11−1、モルヒネの使用に対する抵抗感 ) モルヒネ ( Morphine ) と聞くと、「 麻薬 」 ・ 「 依存性 」 ・ 「 中毒 」 ・ 「 廃人 」 ・ 「 死ぬ前に使う薬 」 などと、 とても危険な薬 と日本の医師は思っていますが、世界の医療現場ではそうではありません。 ![]() ![]() モルヒネの注射だと思いましたが、医師の皮下注射を受けるとやがて激痛が消え、薬の副作用で眠くなりましたが、治療のため 1 ヶ月入院しました。 [ 12 : ホスピス ]ホスピス( Hospice )についてご存じですか ?。最初に単語について説明しますと、これは ラテン語の Hospes が語源とされますが、古代 ラテン語では ホスト ( Host、あるじ ) と ゲスト ( Guest、客 ) の両者の意味があり、客を暖かくもてなす意味なのだそうです。 ここから ラテン語の客 ( hospes ) を迎える場所である ホスピティウム ( Hospitium 〉 が生まれ、そこから ホテル ( Hotel ) ・ ホスピタル ( Hospital、病院 ) ・ ホスピタリティ ( Hospitality 、温かいもてなし ) などの語が生まれました。 ホスピスの原型ともいうべきものは 4 世紀頃からありましたが、 古代 ローマの裕福な貴族の女性の ファビオラ( Fabiola ) が、長旅の巡礼者たちのために憩いの家を造り、そこでは食物と宿が与えられ、病人や負傷者には手当がなされ、治らない時でも最後まで優しく看取られたといわれています。( 12−1、ホスピスの歴史 ) ![]() ![]() ![]() ( 12−2、緩和 ケア ) ホスピス ・ ケアというと、「 死を迎える末期 」 の ケアを連想する人が多いのですが、 緩和 ケア ( Palliative care ) とは 1970 年代から カナダで提唱された考え方で、ホスピス ・ ケアの考え方を受け継ぎ、人の死に向かう過程に焦点をあて、 患者とその家族に対して、痛みやその他の身体的問題、 心理社会的問題、スピリチュアル ( 精神的な問題 ) に積極的な ケアを提供することにより、苦痛を除去し、和らげることで生活の質を改善する手法です。 平成元年 ( 1989 年 ) に W H O ( World Health Organization 、国連傘下の世界保健機関 ) によって、緩和医療が定義されました。 緩和 ケアとは、治癒 ( ちゆ、治ること ) を目指した治療が有効でなくなった患者に対する、積極的な全人的 ケアである。痛みやその他の症状の コントロール、 精神的、社会的、そして霊的問題の解決が最も重要な課題となる。 緩和 ケア目標は、患者とその家族にとって、できる限り可能な最高の Q O L ( Quality Of Life、生活の質 ) を実現することである。末期だけでなく、もっと早い病期の患者に対しても治療と同時に適用すべき点がある。と定義されました。 ( 12−3、ホスピスの費用 ) 厚労省から平成 11 年に出された 「 ホスピス ・ 緩和 ケア病棟の現状と展望 」 によれば、 ガン患者の 93.3 % が病院の 一般病棟で亡くなり、 ホスピスで亡くなる患者は僅か 1.9 % にしかすぎず、自宅で死亡する 6.5 % よりも少ない割合です。その理由の 一つは ホスピスに対する偏見で 「 死に行く場所 」、「 治療から見放された患者が行く場所 」 だからでした。 二つ目は入院費用の高さで、緩和 ケア病棟 ( 主に ガンや A I D S 患者 ) の入院料を、2012 年 4 月に改正された 「 緩和 ケア病棟 ・ 入院料の施設基準 」より抜粋すると、下記のように入院する期間により入院料が変わります。
( 12−3、寝たきり老人が少ない アメリカの病院 ) ところで アメリカの病院では寝たきりの老人患者は少ないといわれていますが、その理由は医療費が非常に高い ( 注参照 ) ためで、高齢あるいは、ガンなどの病気で動けなくなったら貧乏人は 在宅で 看護婦、ヘルパー、ボランティアなどがチームを組む ホスピス ・ ケアを受け、カネのある人は ホスピスで最後を迎えますが、平均入所期間は 1 ヶ月といわれていてます。
私も若い時に日本で盲腸の手術を受けましたが、7 日間入院しました。アメリカの大都市の場合は入院費を含む医療費が極めて高額なので、手術後はなるべく早く退院し、自宅もしくは病院の近くの安い ホテルに泊まり、そこから腰を曲げ傷口を手で抑えながら予約外来患者として通院し、傷の手当てをしてもらうのが普通でした。 なお医者にかかると受け付け窓口で最初に聞かれることは、 「 どのようにして費用を払うのか ? 」 、任意医療保険や会社加入の医療保険 ?、クレジット ・ カード ? かであり、支払い能力が無ければ診察 ( どこが悪いか ) だけは教えるが、治療を拒否する権利が医師にあります。 [ 13 : 今日は死ぬのに もってこいの日 ]![]() 白人女性である彼女は、 農耕民族である プエブロ ( Pueblo ) インディアン の長老たちと交流を持ち、古老から聞いた言葉 ・ 口承詩を集めて本にしましたが、大自然の中で暮らし自分の置かれた立場を知り、死を少しも恐れずに堂々と人生を過ごし、やがて訪れる死を観察しながら迎かい入れるという、 ネイティブ ・ アメリカン の死生観をよく知ることができます。 今日は死ぬのにもってこいの日だ。 この口承詩から彼等の死に方を 「 理想的な死 」 と考える人も少なくありません。つまり病院の ベッドの上で多くの 管 ( くだ ) や ケーブルを体に付けられ、心電図や脈拍を示す モニター画面や人工呼吸器の発する音を聞きながら旅立つのではなく、住み慣れた土地や自宅で、医師や看護師ではなく家族に囲まれて最後を迎えるという死に方に対して−−−です。 それは野生動物が自分の力で 「 エサ 」 を取れなくなり、水を飲めなくなったら静かに死を待つように、病人が口から食べられなくなったり水が飲めなくなった時点で自分の運命を悟り、思い出に浸りながら 死の訪れを受け入れる姿勢です 。 誰かの言葉に、 死は人生の終わりではなく、人生の完結であるとありました。 私の人生も もうすぐ脳梗塞の発症により 完結 する予定ですが、あと数ヶ月で ゴールの 80 才に到達すると思うと、不思議なもので死に対する恐れなど無くなるものです。 ![]() 生まれ付きの 野次馬根性 ( やじうま こんじょう ) というべきか 、見てみよう行ってみようの好奇心 が今も旺盛なので、いまわの きわ ( 息を引き取る際 ) に 三途の川 ( さんずの かわ ) の対岸 ( 彼岸、ひがん ) のお花畑から、 「 お迎え 」 が本当にやって来るのかどうかを、この目で確かめたいと思っています。 さらに 「 あの世 」 とやらには亡くなった両親 ・ 兄姉たち ( 私は 6 人兄姉の末っ子で、私以外は全て死亡 ) がいるらしいので、再会できる (?) のが楽しみです。
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