(6)、防火訓練の歌

その当時 ラジオで盛んに歌われた防火訓練の歌がありましたが、題名は 「 なんだ空襲 」、山田耕作作曲で歌詞の 3 番は以下の通りです。

消火訓練

警報だー、空襲だー/焼夷弾なら慣れっこの火の粉だよ/最初 1 秒濡れムシロ、掛けてかぶせて砂で消す / どんなもんだい、こんな早業 ( はやわざ ) / 覚悟、覚悟だ、何がなんだ空襲だ / 負けてたまるか、ドントやるぞ
その後、伝統的消火道具では、1 度に数万個から数十万個も投下される油脂 ( ナパーム 焼夷弾や黄燐焼夷弾による火災を消火できないことを、多くの人達は空襲の現場で身をもって体験することになりましたが、それからは消火よりも、火災から身を守るために避難するのが先になりました。

( 7 )、防空壕

昭和 19 年 ( 1944 年 ) になると空襲の危険が高まり、ついに 6 月 16 日の未明には中国の成都から飛来した、B−29 長距離爆撃機 47 機が北九州地方を空襲する事態になり、各戸毎に防空壕を掘るように隣組を通じて指示が来ました。私の家は大通りに面していて庭も無かったので、やむを得ずに畳を上げて床板を外し、父と兄で床下に防空壕を掘りました。深さ 1.5 メートル程度の穴で、家族 5 人がやっと入れる大きさでした。

防空壕ができてから間もなく私は学童集団疎開に行きましたが、この防空壕は作ってから一度も使われなかったそうです。

東京の場合 B−29 による空襲 の人的被害は、爆弾よりも焼夷弾による火災の方が圧倒的に多かったのですが、初期の空襲では人々は空襲警報が発令されると、すぐに防空壕に避難しました。

しかし東京都の北部に隣接する埼玉県八潮 ( やしお ) 市史の史料編、近代 2 に記載の 「 帝都空襲ニ於イテ得タル教訓 」 を引用しますと ( 括弧内は読み方とその意味 )、

夜間ノ空襲ニ際シテハ高射砲弾ノ破裂音、待避信号ノ警鐘音、照明弾ノ落下等ニ恐怖シ、徒 ( イタズラ ) ニ待避所 ( 防空壕 ) 内ニ蟄状 ( チツジョウ、とじこもる ) シテ、落下セル焼夷弾ニ対シ完全之ヲ制圧スルノ活動 ( 消火活動 ) ニ遅疑逡巡 ( チギシュンジュン、ためらい、しりごみ ) シ、

とあるように、いざ空襲となると人々は恐怖心に駆られ日頃から訓練をしてきた消火活動もせずに、又周囲の状況判断をすることもなく、防空壕内に逃げ込んで空襲警報の解除をひたすら待つだけでした。

その結果焼夷弾により町内が大火となり防空壕の中で焼死したり、発生した火災から逃げ遅れて焼死する者が続出しました。 また川越市の空襲に関する当時の資料によれば ( 新編埼玉県史 )、

今次空襲災害ノ貴重ナル体験ニ鑑ミ将来留意スベキ事項トシテ、「 平素ノ訓練通リ恐怖狼狽セズ、沈着機敏ニ防護活動 ( 消火活動ノ意味 ) ヲ為スニ於イテハ、被害ヲ最小限ニ喰イ止メ得ルコト確実ナリ 」

戦時中のポスター と消火活動実施に対する信念の保持が強調されましたが、これに従い何万個もの焼夷弾投下の際にも消火活動に専念した為に、逃げ遅れて多数の焼死者を出した地域もありました。

その後は空襲警報が発令されても人々は防空壕には入らずに、消火活動よりも火災からの避難を優先させ、焼夷弾攻撃により発生した火災の様子を見ながら避難すべきかどうか、又風向きを考えて避難の方向を判断するようになりました。


戦時中の生活、学童集団疎開

山村の風景

(1)、東京を離れる

米軍機による本土への空襲が必至となったために、政府は国民学校 ( 小学校のこと ) 児童に対して、田舎に親戚などの縁故のある者は縁故疎開を、無い者は学校 ( 又は クラス ) 全体で地方に疎開する 学童集団疎開 を命じました。

昭和 19 年 ( 1944 年 ) 8 月、私達国民学校 ( 小学校 5 年生の男子 75 人は、付き添いの先生 1 名、保母 4 名と一緒に東京から長野県内の 寺 に 学童集団疎開 をしましたが、同じ学年の女子は優遇されて、同じ郡内にある温泉旅館 ( 青木村 田沢温泉 )に疎開しました。

その寺は山奥の村のさらに一番の奥、行き止まりの部落にありました。周囲を山また山にかこまれた土地で、そこには カエル ・ セミ ・ トンボなどが沢山いて児童達を喜ばせました。

お寺には鐘楼がありましたが、そこには当然有るはずの 釣り鐘 がありませんでした。

自然に親しむ林間学校か修学旅行に行った気分でいた子供達も、やがて厳しい食糧難の現実に直面することになりました。


( 2 )、物資の不足

当時の日本は昭和 12 年 ( 1937 年 ) から始まった支那事変 ( 日中戦争 )やその後の大東亜戦争 ( 太平洋戦争 )により、国外からの物資、原材料の輸入が激減した為、昭和 14 年 ( 1939 年 ) 10 月の 米穀配給統制法 の実施を皮切りに、食糧や衣料品は言うに及ばず砂糖、味噌、醤油、大豆、鶏卵、牛乳、酒、タバコ、マッチに至るまで、順次、 配給統制 が実施されていたのです。

昭和 15 年 ( 1940 年 ) になると更に厳しい生活状態になりました。

  • 2 月 米穀統制公布

  • 3 月: 青果物配給統制規則

  • 8 月: でんぷん類配給統制規則

  • 10 月: 砂糖配給統制規則、牛乳及び乳製品配給統制規則、鶏卵配給統制規則、大豆油等配給統制規則

などです。 通信簿

右にあるのは私が 昭和 20 年 ( 1945 年 ) 、 6 年生の時にもらった通信箋 ( つうしんせん、通信簿と呼んでいましたが、成績通知表のこと ) ですが、戦争がもたらした極度の物資不足の為に、ワラ半紙に手書きで表紙を書き、内側の成績記入欄はガリ版刷りという、今ではとうてい考えられない粗末な品物でした。

児童にとって必需品の ズック靴も、2 年生 ( 昭和 16 年、1941 年 ) の時から各 クラスごとの割り当て制になり、半年毎に靴の破れそうな者数名に限り、購入切符が渡されました。しかし小学生の頃は靴が傷むより先に、成長するに伴い靴が小さくなるので、ズック靴の入手に苦労しました。

主食のお米に例をとると東京都の サラリーマン所帯のそれまでは平均で 1 人当たり 1 日 3 合 5 勺 の消費量でしたが、昭和 16 年 ( 1941 年 ) 4 月から配給制となり、1 人につき、1 日当たり 2 合 5 勺 ( ご飯にするとお茶碗で軽く 5 杯分 )の割り当てとなりました。

その当時日本人が消費する 米の 31 パーセント、砂糖の 92 パーセント、大豆の 58 パーセント、塩の 45 パーセントは、海外からの輸入に依存していました

戦況の激化に伴い海外からの米の輸入が途絶え、そのうえ軍隊への食糧配給を最優先にしたため、 次には 2 合 3 勺、ついには 2 合 1 勺( 約 300 グラム )となり、ご飯にすると 1 日当たり僅か 4 杯分 ( 配給前の消費量の 70 パーセント ) にまで配給量が激減しました。

さらにこの量は熱量に換算すると約 1,200 キロカロリー に相当しますが、成人の必要熱量は約 2,000 キロカロリーですので、お米による カロリー摂取量は必要量の 60 パーセントでした。不足分を副食で補いたくても、 乏しい配給制のためそれが困難でした。

最近の子供達は米飯以外の食べ物を摂る機会が多いため、ご飯の摂取量が少なくこの量でも充分かも知れませんが、その当時空腹を満たす方法としては主食 ( ご飯 ) を食べることだけでした。菓子屋、パン屋、果物屋、そば屋、食堂、肉屋など、食糧品を売る店は材料や商品が入手不能のため全て店を閉じていました。

親元での生活では食糧配給の不足分を、親が ヤミ市場で工面するなどで、質の面はともかく、量的には空腹になることはありませんでした。しかし学童集団疎開をした現地では、乏しい食糧配給だけに依存する生活を余儀なくされたため、 全員が栄養不良、当時の言葉では栄養失調になりました。


( 3 )、目玉が映る重湯 ( おもゆ )

疎開先のお寺では食事のまえには毎回合掌して、お祈りの言葉を唱えました。

正座、感謝、腹 八分目よく噛んで、清潔第一、いただきます。

しかし食糧事情の悪化から 腹 五分目なのに 、腹 八分目というはおかしいとの意見が児童からでて、先生も矛盾を感じたのでしょう、次の言葉に変更になりました。

箸とらば、天地神 ( あめつちかみ = 天神地祇、てんじん ちぎ ) の恩恵み、君 ( きみ、天皇 ) と親とのご恩味わえ、いただきます。

昭和 20 年 ( 1945 年 ) の端境期 ( はざかいき )、つまり前年度収穫した米麦などの農産物の貯蔵が底をつき、秋の新米がとれるまでの食糧の乏しい時期になると、集団疎開先での食糧事情はますます悪化してゆき、ジャガイモを代用食にしたり、「 おかゆ 」や雑炊 ( ぞうすい ) の中の 「 ご飯粒 」 の量はさらに少なくなり、「 おもゆ 」 に近い状態になりました。

食べる際に どんぶりの中身に自分の 目玉が映る のが 「 おもゆ 」、目玉が 映らない のは 「 おかゆ 」という分類法を、まことしやかに言う児童もいました。

別の分類法によると、どんぶりの中身に箸を立てて、箸が立つのが 「 おかゆ 」、立たないのは「 おもゆ 」とのことでしたが、両方とも 食事の量の水増し に対する 「 水分量の簡易測定法 」 でした。

昔のことですが、明治 17 年 ( 1884 年 ) に東北地方を襲った冷害のために、その年の農作物は凶作になりました。奥州日日新聞の記事 ( 明治 18 年 6 月 6 日付 ) によると、米の不作による食糧不足から東北地方では飢饉に見舞われましたが、その際に福島県内の人達は 「 蛍飯 ( ホタル めし ) 」 や 「 鏡飯 ( かがみ メシ ) 」 を食べて飢えをしのぎました

ホタル飯 とは ヨメナと ヨモギ 3 升 ( 約 4,300 グラム ) に米 1 合 3 勺 ( 約 190 グラム )を混ぜて炊くと、大量の菜葉の中に ご飯粒が、丁度水辺の草葉に止まった ホタル のように、あちらに一つ( 粒 )こちらに一つ( 粒 )と、点在して見えることから名付けられたのだそうです。

鏡飯 ( かがみ メシ ) とは 「 おかゆ 」に水を加えて量を増やし、ちょうど鏡のように自分の 顔が映る まで薄めた物のことで、私達が経験した目玉が映る 「 おもゆ 」 と同じものでした。

つまり私達は、 飢饉 ( ききん ) の時と同じ食生活を体験した わけです。

( 4 )、飢えの体験

その当時流行った標語に、 欲しがりません勝つまでは 、というのがありました。なにが辛いといっても育ち盛りの子供たちにとって、 毎日空腹を我慢すること ほど辛いことはありませんでした。三度の食事の際には自分に割り当てられた少量の食事を食べ終わると、まだ食べたいと空腹を感じていても、「 ごちそうさま 」 を言わなければならなかったのです。

飢えた状態になると最初の段階では精神的にいらいらし、次ぎに空腹に起因する怒りから仲間同士のいさかいが増え、空腹が長く続くと満たされないことへの諦めから無気力に変わります。

飢えがもたらす身体的だるさを ヒダルイ とよんでいましたが、飽食の時代に生まれ育った人達は、ヒダルイ状態を体験したことはないと思います。

ひだるくなると生体防衛反応とでも言いましょうか、エネルギーの使用を無意識に抑えようとするため、自然に動作が緩慢になり、すぐに腰を下ろす、横になる、思考力が乏しくなり、考えるのも話すのも 食べ物のこと が多くなります。こういう状態が終戦後も、親が集団疎開先に子供達を引き取りに来るまでずっと続きました。

( 5 )、児童の発育低下

昭和 21 年 ( 1946 年 ) 5 月、文部省体育局が発表した小学校児童の身長、体重に関する下表のデータから、敗戦前後の飢えがもたらした児童の発育低下を、数字の上で具体的に知ることができます。

昭和 22 年度の経済白書はこの数字を引用していますが、次のように コメントしています。

注意してみればすぐ気付くことであるが、この 9 年の間に、身長も体重もほぼ 1 年ずつ ずれている。いいかえれば、小学校 6 年生は 9 年前の 5 年生に相応し、5 年生は 4 年生のレベルにしかないことがわかるのである。
しかしこの数字は全国平均の値であって、親元を離れて集団疎開をした児童の値だけをとれば、 もっと悪い値 になったことは容易に想像できます。

通信簿 ( 成績通知票 ) に書いてある 私の身体検査記録 によると、疎開前の 5 年生の時は身長、体重ともに標準以上の値でしたが

疎開から 8 ヶ月後の 6 年生になった時点では、発育盛りだというのに体重が 30.5 キロから 27.6 キロへと 約 10 パーセントも減少しました。

本来であれば逆に 10 パーセント ( 3 キロ ) 以上は増加するはずですが、食糧不足が原因で、 約 20 パーセント の体重減少という劣悪な発育状態を示す数字になりました。

注:)
昭和 12 年度 ( 1937 年 ) の統計資料は、東京市 ( 当時 ) 児童身体検査標準表による。


小学校児童身体検査データ表 ( 男子 )


学年年度昭和12年度昭和21年度私の疎開前私の疎開後
四年生身長(センチ)125.5121.0------
体重(キロ)24.723.3 ------
五年生身長(センチ)130.5125.6141.2---
体重(キロ)27.225.2 30.5---
六年生身長(センチ)134.7129.9---143.9
体重(キロ)29.827.5 ---27.6


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