山口判事は主に経済関係の犯罪を扱う東京地方裁判所の小法廷を担当していましたが、そこで扱われた事件の大半は闇取引にからんだものでした。
物資の流通にコネがある経営者、政治家、隠匿した軍需物資を売りさばく元軍人、第三国人などの巨悪が闇市場で大儲けをする反面、生きるために食糧を求めて田舎に買い出しに行って来た人々や、闇市場で明日の糧(かて)を買い求める庶民たちが、駅や路上で荷物を警察に調べられて検挙されるのです。
闇取引のかどで逮捕された人数は昭和二十一年(1946年)だけで、およそ120万人、昭和二十二年には136万人、さらに昭和二十三年には150万人にも及びました。このほとんどが食糧の遅配、欠配に悩む一般の人達でした。
信念に生き、信念に死す
三十四才の遵法精神溢れる判事といえども、自分の法廷に引き出された被告には、証拠に基づき食糧統制法の定めに従い、有罪の判決をせざるを得なかったわけで、その苦しい胸の内が理解されます。
良心の板ばさみにあった判事は、結局法律を否定する道ではなく、自分一人だけが法律に従って生きる道を選びました。つまり判事が夫人に語ったように、良心の呵責なしに自分の仕事を遂行しながら、同時に被告たちの辛苦を自分も共有しようとしたのでした。
昭和二十一年のある時、彼は夫人にこう言いました。
おまえと子供たちのために闇の食糧を求めるのはかまはないが、自分には配給物資以外のものは食べさせないでくれ。
夫人によれば、それ以後法に触れずに手に入った食糧である実家からの差し入れのうち、特に米の大半は子供たちに食べさせ、判事と自分には塩水以外に口にするものが無かった日々もあったと、後で語っていました。自己の信念を守り抜いた末に、判事は遂に壮烈な餓死を遂げましたが、昭和二十二年十月十一日のことでした。
判事の死ぬ半年前に、もし闇取引の規制をすべて厳格に実施したら、国民は一人残らず監獄に行くか、餓死するかのどちらかであると書いた雑誌の記事が出ました。
別の雑誌によれば今どき法律を犯さない人間は、刑務所に拘置されている囚人達だけであると書いてありました。
当時の最高裁判所の三淵忠彦長官は法廷外の談話で、山口判事が執行を迫られた現行の法律は実効性に乏しいとはいえ、闇取引を抑制し、生活必需品の調達を改善するという意味で、究極的には有益な目的のものであると述べました。
その一方で、生き永らえることは、食糧規制に違反しないことよりも重要であることも認めました。