我が家の焼失( 昭和20年4月13日 )![]()
[ 火炎地獄 ]当時私の家は東京にある J R 山手線の大塚駅から北へ歩いて十数分の所にありましたが、敗戦後に両親、兄達から聞いた戦災の体験談に依ると、 その夜は 300 機以上からなる B−29 爆撃機の大編隊 が豊島区、文京区、新宿区、千代田区などに大量の焼夷弾を投下し、皇居や赤坂離宮の一部も焼けました。
その夜の空襲では広範囲の火災が同時に発生したために、両親達は逃げ場を失い近くの 大日山 ( やま ) と呼ばれていた、くぬぎ林の中に江戸時代から大日如来を祀るお堂が建つ場所に隣接した空き地に、命からがら避難したのだそうです。そこは都電荒川線の庚申塚駅の西側すぐ近くにあり、当時は竹矢来に囲まれた東大農学部の実習農場 ( 畑 ) でした。
農場に隣接して、日本における近代女子教育のさきがけとなった 明治女学校 { 明治 30 年( 1897 年 ) に麹町から移転 } がありましたが、自由学園創立者の羽仁もと子、作家の野上弥生子などが学んだ 2 階建ての古い洋館の教室がありました。写真の左が明治女学校の寄宿舎、右の洋館が教室。 空き地の周囲をとりまく住宅が火災で燃える熱ですさまじい竜巻が起こり、炎の熱と煙、降り注ぐ火の粉の文字通り火炎地獄の中で、両親たちは運よく九死に一生を得て、 私も戦災孤児にならずに済みましたました 。 しかし猛火から逃げ遅れて焼死した人達も数多くいました。火に囲まれて逃げ場を失ったため、下に掲載した写真で J R 大塚駅の写真の左側にある 7 階建ての白木屋 デパートの地下に逃げ込んだ人達も大勢いました。しかし デパートも建物内部に火が入り炎上したため、後になって地下室から何十人もの焼死体が発見されたそうです。 ちなみに両親達が命からがら避難し命拾いをした東大実習農場 ( 畑 ) の跡地には、その後 東大の学生寮、福祉施設 「 菊かおる園 」、西巣鴨幼稚園 などが建てられていて、豊島区西巣鴨 2 丁目の住居表示になっています。
空襲警報の出し遅れ睡眠中に見た悪夢に関連して米軍の空襲記録を調べると、初弾投下は 4 月 13 日の午後 10 時 57 分でしたが、日本側が空襲警報を発令したのは午後 11 時丁度でした。つまり 1 ヶ月前の 3 月 10 日に起きた、東京大空襲時の空襲警報出し遅れの教訓が今回も全く生かされずに、 352 機 という 大編隊の空襲にもかかわらず、敵機の攻撃が始まってから後に空襲警報を発令するという、実にお粗末な防空警戒体制でした。 なお日本側が空襲警報を解除したのは14 日の午前 2 時 22 分でしたが、米軍報告書の最終投弾時刻は同 36 分とあり、実質的な空襲継続時間は 3 時間 39 分でした。 その間に投下された爆弾、焼夷弾の個数は 15,847 個、合計重量は 2,119 トン でした。
注:)、焼夷弾の数は単体の個数ではなく、種類によって最少 6 個から最大 48 個の焼夷弾を一束にした集束弾 ( 親子焼夷弾 ) の数を示し、それらは投下されると高度約 760 メートルでばらばらに散開しました。 ![]()
J R 山手線、大塚駅北口の焼け跡で、左端の ビルが白木屋 デパート( 現 大塚 ビル )です。火に囲まれ デパートの地下に逃げ込んだ人達が大勢焼死しました。![]()
![]()
焼けた大塚駅の ホームと貨物列車、( 上の写真の右側へ続く )![]() 左端奥の大木は、その地域の氏神様である天祖神社の境内にある樹齢 500 年近い夫婦の大銀杏で、小さい頃から初詣などによくお参りに行きました。戦争が始まると出征する兵士達が家族と一緒に天祖神社にお参りし、武運長久を祈る姿をよく見るようになりました。銀杏の木は昔から火災に強いといわれますが、猛火を受けたにもかかわらず今も健在です。 ところで地元 ( 豊島区巣鴨 ) のお年寄りの集まり、「 巣鴨の昔を語る会 」 が編集した 「 巣鴨のむかし という当時を語る冊子によれば、
大塚駅には軍の貨車が焼けていて、中に米と 「 たくわん 」 の焼けたのがあった。被災者達は真っ黒に焼けた米を掻き分けて内部の焼けていない、きれいな米を自宅の焼け跡に持って帰り、炊いて食べた。
昔は駅の ホームからよく見えた天祖神社の大銀杏も、大日山 ( だいにちやま ) の大木も、昭和 40 年頃から駅の周辺に高い ビルが建てられて、今ではすっかり見えなくなりました。駅周辺も大きく様変わりしてしまい昔を偲ぶ 「 よすが 」 は、J R 山手線の ガード下にある都電 ( 早稲田 〜 三ノ輪橋間を走る荒川線 ) の乗り場だけです。
|