[ 1: 歴史認識の 定義 ]
歴史認識 について論じるためには、まずその言葉の
「 定義 」 を明確にする必要があります。私が住む市の図書館にある 4 種類の百科事典、( その中には 1988 年の初版以来 20 年ぶりの大規模改訂をしたと称する最新版の百科事典も含む ) や辞書の大辞林 ・ 広辞苑 ( こうじえん ) の最新版を調べると、
轢死人 ( れきしにん、車輪にひかれて死んだ人 ) はあっても ( 笑い )、
歴史認識という項目はありませんでした 。
つまり歴史認識という言葉は百科事典や辞書で定義するべき 範疇 ( はんちゅう、同一性質のものが属すべき部類 ) の言葉ではなく、人により意味も使い方も あいまいで
1990 年代 になって、日本の左翼系 マスコミの間で使用されるようになった言葉であることが判明しました。
すると反日 マスコミからの
「 ご注進 」 ( ごちゅうしん、急いで報告すること ) を受けた韓国が、例によって早速取り入れて日本に対する
「 外交 カード 」 ( 外交上有利に立つための道具 ) として使うようになりましたが、いつ消滅するかも知れない不安定な、
いわば 「 流行語の部類 」 であることが分かりました。
鎌倉時代の歌人 ・ 随筆作者の鴨 長明 ( かもの ちょうめい ) が書いた方丈記の冒頭にある
淀 ( よど ) みに浮ぶ うたかた ( 泡沫、あわ ) は、かつ消え、かつ結びて、久しく止 ( とゞ ) まる事なし。( 以下省略 )
にも例えられる儚 ( はかな ) い ものであり、
行く川 ( 時 ) の流れの中で毎年内容が入れ替わる、
時事用語集 ・ 現代用語の基礎知識 ・ 現代用語事典 ・ 朝日 キーワード 2013 の中でさえも、歴史認識という項目は見当たりませんでした。
( 1−1、歴史認識という言葉 )
「 歴史とは年表に非 ( あら ) ず 」 という言葉がありますが、歴史上の出来事を歴史年表のようにいくら羅列 ( られつ、ずらりと並べること ) したところで、歴史にはなりません。そこには
目的に沿った内容 となるように対象となる事柄の
取捨選択 をおこない、
解釈 がなされ、内容が整えられることが必要です。
その前提となるのが物事を見分け本質を理解し判断する
認識です 。すなわち歴史そのものが、もともと
認識という過程を経て 形成されるものなのです。
戦後左翼 ( 例えば 管 直人 ・ 仙石由人 ・ 福島瑞穂など ) が使う歴史認識の
「 歴史 」 とは、
「 彼等が正しいとする歴史 」 のことであり、具体的には日の丸 ・ 君が代を初めとする
日本文化や 日本の過去を否定する歴史 のことなのです。「 歴史 」 と 「 認識 」 の語を合成した
歴史認識 、英語にすれば Cognition of History という言葉に違和感を感じませんか ?。
なぜなら認識によって初めて成り立つ歴史を、さらに
認識する という いかにも
「 左翼主義的な臭い 」 が プンプンする合成語 を創作した反日左翼系 ジャーナリストは、歴史という言葉が持つ正しい意味を知らなかったのに違いありません。
歴史や歴史観を 「 学ぶ 」 というのであれば意味が分かりますが、ここで注意しなければならないのは、韓国や中国が自分たちにとって都合の良いように
常に歴史を ねつ造し歪曲 ( わいきょく、内容をゆがめ 曲げる ) することであり、これらの国々では 「 竹島や尖閣の問題 」 で見られるように、証拠となる資料の研究を積み重ねて結論に導く、いわゆる
近代的な 「 学問としての歴史 」 など決して存在しないのです。
あるのは両国とも
「 政治の道具としての歴史 」 、プラス韓国の場合は自国の過去の歴史について実情とはほど遠い、美化された
「 願望 ・ 虚飾の歴史 」 ( 次項の 注 参照 ) しか存在しないのです。
( 1−2、日韓併合前の、朝鮮の姿 )
イギリス人の旅行家 イザベラ ・ バード ( Isabella Bird ) は 1894〜1897 年にかけて 4 回も朝鮮を訪れましたが、彼女の著書を見れば日韓併合以前の
貧しい朝鮮 の様子と、日本社会との違いを詳しく知ることができま。
注、韓国における願望 ・ 虚飾の歴史の真実
日韓併合以前の朝鮮は財政的に破綻状態にあり、当時 中華民国の臨時大統領だった袁世凱 ( えんせいがい、1859〜1916 年 ) によれば、 「 万国の中で、最貧弱国の状態 」 であった。
935 年の新羅 ( しらぎ ) 統一王朝の滅亡以来中国に侵略され属国になり、豊臣秀吉の 2 回にわたる朝鮮征伐 ( 1592〜1598 年 ) を受け、1910 年には日本に併合され、 1945 年の日本敗戦により 「 棚から ボタ餅 」 で独立が与えられた韓国の歴史は、子孫に誇るべきものが何も無かった。
そのために現在では、 ウリナラ ( 我が国 自慢 ) 何でも韓国が最初に作った ・ 一番である とする、 ウソ で塗り固めた歴史を学校で教えている。
そんな立派な過去 (?) を持つ韓国の ノーベル賞 受賞者が、北朝鮮の金日成に高額の面会料を支払って面会したことによる、金大中の平和賞 1 人であることに韓国人は疑問を感じていない。戦後の日本は 68 年間に 18 人 も受賞しているというのに。
その理由は中国と同様に他国の 技術を盗み コピー商品を作り金儲け をするだけで、民族として 独創性の欠落が原因とされる 。ちなみに国策会社の サムスン電子による特許権侵害は世界的に有名で、訴訟はこれまでに 3,000 件を越えるといわれている。
イザベラ ・ バードの朝鮮紀行 ( 1894〜1897 年、本の英語名は、 Korea and her Neighbors ) によれば 当時の ソウルに関して、
道は牛がすれ違えないほど細く迷路のようであり、家から出た汚物によって悪臭が酷 ( ひど ) く、北京を見るまで 「 ソウルこそ この世で 一番不潔な町 」 だとし、 「 紹興 ( しょうこう、中国 ) へ行くまでは、 ソウルの悪臭こそ この世で 一番ひどい臭いだ 」 。都会であり首都であるにしては、そのお粗末さは実に形容しがたい。
と記しています。
この世で一番不潔で悪臭のただよう町から、1910 年の日韓併合後は日本により社会の インフラが大幅に整備され市電が走るようになりましたが、百聞は 一見に如かず、ソウルの中心にある南大門周辺の、
日韓併合の 前 / 後の変化の様子をご覧下さい。
外国人が見た日本の朝鮮統治 ( 動画 )
これを見れば日本の植民地政策が欧米型の
収奪ではない ことが分かりますが、社会 インフラの整備 ・ 農業改革 ・ 工業化をおこなうために、朝鮮総督府は当時の金額で
毎年 1,500 万円〜2,000 万円もの予算の補填 ( ほてん ) を日本政府から受けていました。
これは朝鮮総督府の年平均歳出の約 15〜20 パーセントを占めましたが、これにより朝鮮半島では、併合以前に比べて
人口が倍増しました 。朝鮮で日本が犯した
最大の失敗はここにありますが 、ヨーロッパ諸国の植民地政策と比べて下さい。
朝鮮紀行抜粋(その一)
朝鮮紀行抜粋(その二)
[ 2 : 従軍看護婦と、従軍慰安婦 について ]
まずこの問題の ポイントは日本軍が朝鮮人女性を強制連行し、従軍慰安婦にしたとする 客観的証拠 ・ 証人 が現在まで全く存在しないことです。
被害者が 7 万〜 20 万人もいたというのに (?)、あるのは従軍慰安婦本人の主張だけで、裁判では 1 人の証人も出廷しませんでした。( 強制連行自体が存在しないので、証人がいないのは当然 ) これでも売春婦の主張を信じろと言えますか?。
昭和 12 年 ( 1937 年 ) に起きた支那事変 ( しなじへん、日中戦争 ) から大東亜戦争 ( アメリカ側の名称である太平洋戦争に対する、日本側の名称 ) の敗戦 ( 1945 年 8 月 ) までに、
日本赤十字社 が戦地に派遣した 「 戦時救護看護婦 」 いわゆる
「 従軍看護婦 」 は、延べ人員で
33,156 人 でした。
日本赤十字社の看護婦になるためには、昔の高等女学校 ( 現 ・ 高校 ) 卒業後 3 年間の看護教育を受けましたが、その後は結婚し子供が生まれても、 20 年間は応召 ( おうしょう、軍の招集に応じる ) の義務がありました。
戦地に於ける敵の襲撃 ・ 病院船に対する国際法違反の攻撃 ・ 内地の病院勤務中の空襲 ・ 原爆などにより 死傷した 従軍看護婦は、
殉職者が 1,143 名、負傷者は 4,689 人 に達したと云われています。
写真は元 南米航路 ( アルゼンチンの首都、ブエノスアイレス ) 行きの貨客船から、戦時中に海軍に徴用された病院船 「 ぶえのすあいれす丸 」 ( Buenos Aires Maru、9,600 トン ) ですが、日本の航空基地があった ニュー ・ ブリテン島 ラバウルの野戦病院から傷病兵 1,129 名と、60 人近くの
従軍看護婦 を乗せて南洋委任統治領の パラオに向けて航海しました。
ところが出航して僅か 2 日後の 1943 年 ( 昭和 18 年 ) 11 月 27 日 朝 8 時頃、ニュー ・ アイルランド島近海で、白く塗装した船体に緑の帯を表示し、甲板上にも病院船を示す
「 赤十字の マーク 」 を大きく表示していたにもかかわらず、
国際法に違反した 米軍の B−24 爆撃機に爆撃され沈没しました。
( 2−1、 従軍 慰安婦 という言葉を創作した男 )
上述したように当時の日本では 「 従軍看護婦 」 という制度、名称は存在しても、現在いわれている意味での
「 従軍慰安婦 」 などという制度も従って言葉も存在せず、そういう
職業の女性のことを軍人相手の売春婦 ・ 女郎と呼びました 。 「 従軍慰安婦 」 という
言葉を 創作し 本に書いたのは、 元 毎日新聞社員で 作家の千田夏光 ( せんだ かこう ) でした。
彼は 1973 年に 「 従軍慰安婦 正編 」 という本を書き、それが出版されましたが、その本の 「 はじめ 」 には以下のように書いてありました。
いわゆる従軍慰安婦 、すなわち軍命令により戦場へ連れていかれ、第一線将兵の性欲処理用具として使われた女性たちに私が目をむけるようになったのは、昭和 38 年 ( 1963 年 ) 夏であった。
しかし彼の著作は創作や誤りが多く、一例を挙げると 1970 年 8 月 15 日の光復節 ( こうふくせつ、日本からの独立を祝う韓国の祝日 ) の前日 ( 14 日 ) に ソウル新聞が書いた、
1943 年から 1945 年まで、挺身隊に動員された韓 ・ 日の 二つの国の女性は全部でおよそ 20 万人。そのうち韓国女性 5〜7 万人と推算されている。
という反日新聞の記事を検証もせずにそのまま
「 女子挺身隊に動員された女性 20 万人のうち、5〜7 万人が 強制的に従軍慰安婦 に従事した 」 と著作で述べています。しかしその後の調査によれば日本でも韓国でも女子挺身隊に所属した女性が、従軍慰安婦になった例は
存在しませんでした 。しかも彼はこの数字をその後の著作にも記述していました。
( 2−2、 女子挺身隊 イコール従軍慰安婦とねつ造した朝日の記者 )
従軍慰安婦問題の発端は 1991 年 8 月 11 日の
朝日新聞の ねつ造記事 でしたが、ここが問題の重要な ポイントです。
女子挺身隊 イコール従軍慰安婦という誤解を広めたのは、後述する慰安婦裁判の原告第 1 号となった金学順 ( きん がくじゅん ) が
「 親に 40 円で キーセン ( 売春婦 ) に売られた 」 と訴状に書いていたのを、
朝日新聞の植村隆記者が 「 女子挺身隊の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた朝鮮人従軍慰安婦のうち、一人が名乗り出た 」 とする
ねつ造記事を書き報道したこと がきっかけになりました。
なお植村記者の妻は韓国人で義母の梁順任 ( りょう じゅんにん ) は、当時 「 アジア太平洋戦争韓国人犠牲者 ・ 補償請求裁判 」 の原告団長であり、義母の訴訟を有利にするために
「 日本軍による女性の強制連行 」 という
ねつ造記事を書いた と批判されています。なお左の写真で眼鏡の義母は、その後裁判の補償金詐欺で立件されました。
日本における女子挺身隊の正しい姿については、ここにあります。
( 2−3、 吉田清治と 朝日新聞について )
前述した千田夏光 ( せんだ かこう ) が書いた本は、その当時人々の注意をほとんど引きませんでした。 ところが 1983 年 ( 昭和 58 年 ) に
吉田清治 ( 本名 吉田雄兎、ゆうと ) という 虚言癖 ( きょげんへき、うそをつく くせ ) のある男が、いわゆる従軍慰安婦問題の発端となった 「 私の戦争犯罪 」 を書きましたが、その中に
彼が朝鮮の済州島で若い女性たちの 奴隷狩り ( 強制連行 ) をしたとする内容がありました 。
これを知った朝日新聞は ジャーナリズムとして不可欠な内容の事前確認 ( ウラを取ること ) もせずに、強制連行の
「 生き証人 」 として吉田のことを大きく取り上げ、
5 回も記事にし、テレビ朝日の番組 にも出演させました。さらに吉田は犯行現場 (?) の済州島ではなく韓国本土に行き、土下座をして韓国民に謝罪するなど、自己宣伝の パーフォーマンスをおこないました。
しかしその後の検証により彼が書いた本が
虚偽の内容 であることが判明したので、今では従軍慰安婦問題における証拠価値をまったく失い、それまで吉田清治を利用した戦後左翼の連中からも、朝日新聞からも見放されてしまいました。しかし朝日新聞は未だに自らの誤報を認めず、記事の訂正もしていません。
去年の衆院総選挙を前にして、 2012 年 11 月 30 日に日本記者 クラブ主催の党首討論会がおこなわれましたが、その際に朝日新聞の記者が
「 河野談話 」 の見直しについての質問を行いましたが、これに対する安倍晋三 自民党党首の答があります。
慰安婦問題は 朝日新聞の誤報 ( 管理人の コメント、正確には ねつ造 ) によって、 吉田清治という詐欺師のような男 が作った本が、まるで事実かのように日本中に伝わっていったことで問題が大きくなった。
その ( 本の ) 中で果たして 「 人さらい 」 のように人を連れてきた事実があったかどうかという事については、 それは証明されていない ( 管理人の コメント、つまり被害者が 7 万〜20 万人もいたというのに、慰安婦本人の主張だけで、親兄弟 ・ 親族 ・ 近隣住民による目撃者証人が 1 人も存在せず、従って裁判に出廷しなかった ) 、 という事を閣議決定しています。
と明確に述べました。
事の真偽も検証せずにあたかも事実であったかのように、左翼系 マスコミ ( 朝日新聞 ・ テレビ朝日 ) により報道されましたが、 この虚偽の情報が韓国内はもちろんのこと、
「 性奴隷、 Sex Slave 」 として アメリカなどにも宣伝され、韓国では未だに 「 従軍慰安婦 」 に対する 「 強制連行 」 を日本がおこなったとする
歴史認識 を、日本に対し認めることを要求しています。
[ 3 : 戦後左翼 による、裁判の原告さがし ]
そもそも 「 従軍慰安婦 」 問題の発端 ( ほったん ) は韓国ではなく、実は
日本が火元 であり、敗戦後 20 年も経った 1965 年の日韓基本条約締結の予備交渉の際には、「 従軍慰安婦 」 の件など議題にも上りませんでした。つまり当時の
韓国には、この問題が全く存在しなかった 明らかな証拠です。
朝鮮半島では昔からつい最近に至るまで、貧しさや金銭欲から売春が盛んにおこなわれ、
掃いて捨てるほど売春婦やその予備群がいたのに ( 後述 )、日本の軍隊がわざわざ手間ひま掛けて朝鮮人の素人娘を奴隷狩りしてまで、 「 従軍慰安婦 」 にさせる必要性など全くありませんでした。
なぜなら新聞広告さえ出せば容易に売春婦が募集できたからであり、雇い主の大部分は朝鮮人でした。 「 強制連行 」 の件は吉田清治の
作り話を、「 戦後左翼 」 と呼ばれる連中が 意図的に利用し広めた ものでした。しかも大卒 サラリーマンの初任給が 100 円の時代に、月収 300 円 ( 前借 3,000 円まで可 ) と書いてありました。
論より証拠、 「 戦後左翼主義者 」 が 「 従軍慰安婦 」 裁判を始めるに当たり、事前に
強制連行により慰安婦にさせられたとする被害者 ( 原告 ) を求めて 日本からわざわざ韓国に行き、 「 元 ・ 慰安婦 」 探しの行脚 ( あんぎゃ、方々を旅すること ) をしました。
日本を誹謗中傷 ( ひぼうちゅうしょう、根拠のない悪口を言い、人の名誉を傷つける ) する為なら
どんな ウソ でも平気でつく 韓国 の主張では、
7 万〜20 万人 もいわゆる 「 従軍慰安婦 」 が存在したはずでしたが、探しても見つからずに苦労しました。