土佐は鬼国(おにぐに)


土佐の鎖国政策

江戸時代、阿波徳島藩の石高は公称二十五万七千石でしたが、実質は四十五万石といわれました。その理由は特産の藍(あい染めの原料)の藩外への輸出がもたらす収入にありました。同様に讃岐(香川県)では三白と言われた製塩、砂糖、讃岐米があり、丸亀藩(五万三千石)の財源は讃岐の金比羅宮の参詣客でうるおっていました。伊予(愛媛県)では製塩、木蝋、温泉(道後)の産業があり、石高以外の多額の収入がありました。

しかし土佐(高知県)では藩外に輸出してカネを稼ぐ特産品や産業も無く、他国から人を呼び寄せる温泉もありませんでした。しかも農地が少なく領地の八割を山が占めるにもかかわらず、木材の搬出手段が乏しいため木材による収入は少なく、藩の財政は常に逼迫した状態でした。

そのため、農民を土地に縛りつけて藩外への出稼ぎを禁止し、領民の旅行を制限すると共に他国の風習、情報から隔離するため、遍路を含む人々の入国を極度に制限する鎖国政策を江戸時代の初めからとりました。


遍路に対する通行、宿泊制限

  1. 道すじの指定
     遍路が歩く道すじは、各霊場を結ぶ指定の遍路みちに限る。

  2. 参拝霊場制限
    札所の参拝は四国霊場十六ヶ寺に限り、その他の寺院(番外霊場)、奥の院への参拝を禁止する。

  3. 宿泊先の指定
     遍路の宿泊は遍路宿、善根宿のみとし、一般農家、商家への宿泊を禁止する。

  4. 宿泊日数制限
     無用に何日も滞留することを禁止し、やむを得ない場合はその村の庄屋の許可を得ること。

という厳しい掟でした。

遍路に対する取り締まり

天保九年(1838年)4月に土佐藩が出した命令によれば、

乞食同様の輩、老幼病人が数百人も行き掛かり、藩内で病死するのはまことに厄介千万である。それゆえ遍路については生国の発する往来手形や相応の路銭の有無を、また回国六十六部の者であれば、所定の仏具の持参の有無をしかと改めて、不審な者は国境へ追い返すべし
とありました。

六十六部の姿 注:)
六十六部とは法華経を六十六部書き写し、日本全国六十六ヶ国の霊場に一部ずつ奉納して回った僧のことで、六部とも言われましたが鎌倉時代から始まりました。

江戸時代には諸国の寺社に参詣する巡礼、または遊行(ゆぎょう)の聖(ひじり)のことを呼ぶようになり、白衣に手っ甲、脚絆、草鞋がけで、背に阿弥陀如来像を納めた龕(がん)という長方形の入れ物を負い、六部傘をかぶった姿で諸国を回りました。

また六部の巡礼姿で米や銭を乞い歩く、一種の乞食(世すぎ遍路と同じ)もいました。

参考までに江戸時代の川柳に

故郷(ふるさと)へ、回る六部は気の弱り
というのがありますが、故郷を遠く離れて長年諸国を旅して回った六部も年老いてくると気弱になり、ふるさと近くを回るようになる、という意味です。


土佐を除く、三国参り

四国のうち土佐の国だけが旅人や遍路に対して厳しい制限を加え、また住民の遍路に対する冷遇から、托鉢によって食物、金品を得ることが困難なため、遍路達からは土佐は「おにぐに」、病気になっても宿がないと言われ次第に嫌われるようになり、土佐の国を除いて巡る遍路が多くなりました。

阿波の国(徳島県)の最南端にある二十三番薬王寺や伊予の国(愛媛県)の最南端にある四十番観自在寺を参拝した後、土佐(高知県)の方向に向かい遙拝すれば、土佐に入国せずに土佐十六ヶ寺を参拝したとみなす「三国参り」の制度が誕生しました。

貧しさに起因する長年の鎖国がもたらした土佐の住民の遍路に対する偏見、冷遇、排斥はその後、明治、大正時代までも続きました。


遍路の国別割合

巡礼の社会学(前田卓、著)によれば、江戸時代(二百七十年間)から現在に至るまで残存している各寺の納め札、過去帳、各地の遍路墓に記された出身国名などから割り出した遍路の数では、多い国順に、一位:阿波(徳島県)、二位:紀伊(和歌山県)、三位:讃岐(香川県)、七位:伊予(愛媛県)ですが、土佐(高知県)は四国という地の利に恵まれていながら、その数では三十九位でした

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