[ 7 : 中国の歴史書 ]
( 7−1、魏志倭人伝に記された絹 )
3 世紀の日本を知る上での重要な資料に、西晋 ( せいしん ) 王朝の歴史家である 陳寿 ( ちんじゅ、233〜297 年 ? ) が編纂したとされる中国の歴史書
「 三国志 」 がありますが、その中にある
「 魏書 」 の第 30 巻 ・
烏丸鮮卑東夷伝 ( からすま せんぴ とういでん ) の中にある
2,008 文字 からなる
倭人条 ( わじん じょう ) を、一般に
魏志倭人伝 ( ぎし わじんでん ) と略称しています。そこには以下の文言が記されています。
種禾稻紵麻、蠶桑緝績、出細紵 [ 糸兼 ] 緜
禾稲 ( かとう )・ 紵麻 ( ちょま ) を植え、蚕桑 ( さんそう ) 緝績 ( しゅうせき ) し細紵 ( さいちょ )、 ( 糸偏に兼の字を書く ) [ けん ] 綿 ( けんめん、 ) を出 ( いだ ) す
[その意味]
稲と 麻を植え、 カイコに桑を与えて糸を紡 ( つむ ) ぎ 、細い絹糸や綿糸などを作る。
とありました。
( 7−2、卑弥呼が贈った織物 )
魏志倭人伝によれば、景初 2 年 ( 238 年 ) に倭 ( わ ) の女王 ( 卑弥呼、ひみこ ) が大夫 ( だいぶ、古代中国における身分呼称のひとつ ) の難升米 ( なしめ ) らを、当時 魏 ( ぎ ) の明帝 ( めいてい ) が支配していた朝鮮半島中部の帯方郡 ( たいほうぐん ) に派遣して、魏の皇帝に拝謁 ( はいえつ、高貴な人にお目にかかる ) して朝貢したいと申し出ました。
そこで太守の劉夏 ( りゅうか ) は部下に命じて倭 ( わ ) の使者を都の洛陽 ( らくよう ) に送らせましたが、その際に女王卑弥呼 ( ひみこ ) から贈られた朝貢品は、男の生口 ( せいこう、奴隷 ? ) 4 人 ・ 女の生口 6 人 ・
班布 ( 縞模様の綿布 ) 2 匹 2 丈( 長さ約 57 メートル ) でした。
卑弥呼 ( ひみこ ) が生きていた 弥生時代後期 の日本では、
養蚕が行われ絹の布地 が織られていたことを示す明白な証拠があります。佐賀県 ・ 神埼郡にある
「 吉野ヶ里 ( よしのがり ) 遺跡 」 は我が国最大の遺跡で、 弥生時代 ( 紀元前 300 年 〜 紀元 300 年 ) における二重の環濠 ( かんごう ) で囲まれた集落と、巨大な墳丘墓 ( ふんきゅうぼ、盛土をした墓 ) があり、日本の古代の歴史を解き明かす上で極めて貴重な資料が得られます。

そこで発掘されたほぼ密封状態の甕棺 ( かめかん、注 参照 ) から約 30 片の布片が出土しましたが、弥生時代中期末から後期初頭 ( 紀元前 100 年 〜 紀元 100 年 ) のものとされ、
布片は絹とされます 。
それが写真の布片ですが、それ以外にも福岡 ・ 佐賀 ・ 長崎の 13 の遺跡で絹が出土していて、当時の日本では 養蚕がおこなわれ絹の織物があった証拠で 、魏志倭人伝の記述を裏付けるものでした。
注 : 甕棺 ( かめ かん )

甕棺 ( かめ かん ) とは埋葬用に用いられた大型の土器で、日本では弥生時代に多く用いられ九州北部を中心に、二個の甕 ( かめ ) の口縁 ( こうえん ) を合わせた 「 合わせ口 甕棺 」 が多く出土します。写真の甕棺 ( かめかん ) は吉野ヶ里遺跡から出土したものですが、埋葬された人物の頭部は なぜか切り取られていて存在しません。
( 7−3、後漢書 倭人伝の絹 )
南宋王朝 ( 420〜479 年 ) の 范曄 ( はんよう、398〜445 年 ) が編纂し、 紀元 432 年 に成立した
後漢書 の巻 85 ・ 列伝 75 東夷伝 ・ 倭 ( わ ) 条 によれば、
土宜禾稻、麻紵、蠶桑、知織績為?布
[その意味]
風土は禾稻 ( かとう )、麻紵( まちょ ) の栽培に適し、養蚕に宜 ( よろ ) しく、織績 ( しょくせき ) を知り [ けん ] 布 ( けんぷ ) を織ることを知っている。
けんぷ の 「 けん 」 は パソコンには無い字で、糸偏に兼の字です。編纂者の范曄 ( はんよう ) は先に刊行された魏志倭人伝を参考にして、後漢書を書いたともいわれています。
[ 8 : 大唐西域記に記された、蚕種西漸 ( さんしゅ せいぜん ) ]

前述 した 「 オアシス ( Oasis ) の道 」 の交易路の 一つに、世界第 2 位の面積を持つ
タクラマカン砂漠 の南側を通る
西域南道 ( 南路 ) がありますが、この道は タクラマカン砂漠の北側を通る天山南路と共に、後述する リヒトホーフェンが シルクロードと呼んだ道であり、その西域南道沿いにある オアシスを支配した国に ホータン ( 旧名は、于てん ) 、 ( Kingdom of Khotan、和田 ) がありました。
ホータンは古くから中国で珍重された 玉 ( ぎょく、軟玉の ネフライト ) の産地として知られ、シルクロード東西交易の中継地として栄えました。

当時の ホータンは仏教国 ( 現在は イスラム教 ) で、 唐の僧 玄奘三蔵 ( げんじょう さんぞう、別称 三蔵法師 ) が、仏教の原典を求めて 629 年から 645 年まで 16 年間かけて インドで巡礼や仏教研究を行い、経典 657 部や仏像等を持って唐に帰国する旅の途中に一時滞在しましたが、絵図は玄奘三蔵です。
そのことは彼の内容的には旅行記 ・ 見聞録 ・ 中央 アジア及び インドの地誌である
大唐西域記 ( だいとう さいいきき ) に記されていますが、玄奘はその中で、
蚕種西漸 ( さんしゅ せいぜん、カイコの種が次第に西に伝わる ) という古くからの伝承 ( でんしょう、言い伝え ) を記しています。
紀元 1 世紀頃の ホータンでは桑蚕 ( そうさん、くわや カイコ ) が未だ知られておらず、中国の王朝に桑蚕の提供を求めましたが、中国では絹織物の生産独占のために、桑蚕の国外持出しを禁止していて拒否されました。そこで ホータン王はある計画を立てて、中国の王女に婚姻を申し入れ 話がまとまりました。
王女を迎えに行く使者に命じて、 ホータン王の元に嫁ぐ際に、王女にひそかに 桑とカイコの種 を持ち出すように依頼しましたが、王女は未来の夫の頼みを果たすべく結い上げた髪に帽絮 ( ぼうじょ、帽子 ) を被り、その中に カイコの マユと桑の種 を隠して ホータンに持ち出すことに成功し、ホータン国に桑と カイコが伝わったとされます。
その後 ホータンでは オアシス沿いに桑を繁らせ カイコを育て絹織物が盛んになり、重要な交易品として諸国で珍重されました。
[ 9 : 絹の道の命名者 ]

ドイツの地質学者 兼地理学者に
リヒトホーフェン ( Richthofen 、1833〜1905年 ) がいましたが、1860 〜 1862 年にかけて初めて東 アジアを訪れました。その後さらに 1869〜1872 年 ( 明治 5 年 ) にかけて再び中国を訪れ、それを基に
地理学の名著 ヒナ ( China の ドイツ語読み ) 全 5 巻、地図 1 巻の合計 6 巻の大著を刊行しました。 左はその原本です。

その第 1 巻の中で ザイデンシュトラーセン ( SeidenstraBen、
絹の道 ) という言葉を彼が初めて使いましたが、1877 年 ( 明治 10 年 ) のことでした。その後それを英訳した シルクロードという言葉が、世界で広く使われるようになりましたが、彼が考えていたのは 「 らくだ 」 の背中に大きな荷物をのせて運ぶ キャラバンが、砂漠の中の オアシス諸都市をつなぐ ルートでした。
[ 10 : ヘディンと スタインの発見 ]

スウェーデン生まれで 20 世紀最大の 中央 アジア探検家といわれた スヴェン ・
ヘディン ( Sven Hedin、1865〜1952 年 ) は、 4 次にわたり西域探検をおこないましたが、タクラマカン砂漠の奥地を探検中に砂漠の砂に埋もれた
ダンダン ・ ウィリク ( Dandan-Uiliq、第 8 項の地図参照、象牙のある家々の場所の意味 ) の 遺跡 を発見したのは 1896 年のことでした。
タクラマカン ( Taklamakan ) とは ウイグル語の、「 タッキリ ( 死 )」、「 マカン ( 無限 )」 の合成語といわれ、その砂漠とは
生きては戻れぬ死の砂漠 という意味でした。
その後 ハンガリーの考古学者で 1904 年に イギリスに帰化した オーレル ・
スタイン ( Aurel Stein ) が 、ヘディンの探検を足がかりに、1900 年に ホータンの北東にある
ダンダン ・ ウィリク遺跡 に到達しましたが、遺跡の広さは 2 キロメートル 四方で、遺跡の多くは仏教寺院であったことが判明しました。その後 ダンダン ・ ウィリク は、中央 アジア考古学の聖地となりました。
標高 6,000 メートル以上の高山が連なる崑崙 ( こんろん / くんるん ) 山脈の氷河を水源とする川の オアシス都市の ダンダン ・ ウイリクは、かつては 14 もの寺院がありましたが、
命の綱の水路が変わったことから住民が此の地を放棄し 、タクラマカン砂漠の流砂の中に埋もれ廃墟と化したのは、スタインが発見する千年以上前のことだといわれています。
( 10−1、蚕種西漸 の板絵発見 )
その遺跡で スタインは縦 12 センチ、横 16 センチの板に絵を描いた
1 枚の板絵 ( いたえ ) を発見しましたが、これが前述した 1,200 年以上前に玄奘三蔵が著書 『 大唐西域記 』 に記した 「 蚕種西漸 」 ( さんしゅ せいぜん、カイコの種が次第に西に伝わる ) という伝承を描いたものでした。
当時の住民が ダンダン ・ ウイリクの寺院に奉納した、日本流にいえば絵馬 ( えま ) に相当する板絵とされます。

そこには関所を固めて桑蚕 ( そうさん、くわと カイコの種 ) の
国外持出しを防ぎ 、往来の荷物を調べる役人の男と、結い上げた髪に帽絮 ( ぼうじょ、わたぼうし ) を被り、その中へ蚕種 ( さんしゅ、カイコの卵 ) と桑種子 ( くわの タネ ) を隠した王女、その髪を指さす侍女などが描かれています。
侍女と王女との間にある籠には カイコの マユ が盛られており、板絵の右側には別の侍女と共に絹を織る織機が見えます。関所では荷物をすみずみまで調べたものの、さすがに王女の髪や帽絮 ( ぼうじょ ) だけは手を触れるのを遠慮したので、無事に関所を通過しホータン王国へ養蚕が伝搬したとされます。
この蚕種西漸 伝説図 ( さんしゅ せいぜん でんせつず ) は漢の時代に中国から中央 アジアの ホータン国 ( 注参照 ) に絹が伝わった証拠とされ、それによりホータン王国は中国産の絹を交易するだけでなく、自国でも絹を産出して交易するようになりました。
さらに シルクロードを交易路とする隊商たちにより、貴重品の絹はもちろんのこと、
桑と カイコの種 も ローマを経由して遠く ヨーロッパ へ伝えられましたが、板絵の現物は ロンドンの大英博物館に収蔵されています。
注 : ホータン

ホータンを含む東 トルキスタンには第 2 次大戦後の混乱に紛れて 1949 年に 人民解放軍が屯田兵として進駐し、 欲しいものは何でも 自分のものとする 中国に併合された 。
現在は 新疆 ( しんきょう、新しい辺境の地の意味 ) ウィグル自治区 に属するが、自治とは名ばかりのものであり、独立を求める イスラム教徒の ウイグル族による反政府活動が今も続いている。
50 年前に貪欲 ( どんよく ) な中国によって国を強奪され、これも名前ばかりの自治区にされた チベットでは、「 宗教は アヘン なり 」 とする カール ・ マルクスの思想を受け継いだ 中国共産党により仏教寺院が破壊され 仏教徒に対する迫害が今も続くが、それに抗議する チベット仏教僧による 焼身自殺 が、これまで 104 人 に達し今も後を絶たない。
[ 11 : 絹の価値 ]

当時の東西交易で一番利益をあげることができた品物は、中国でしか生産されなかった高価な シルク ( 絹織物 ) でした。古代 ローマでも絹は上流階級の衣服として好まれ、貴族が劇場に行くときには貴婦人たちは美しい シルクを身にまとって行きました。すると観客の目はいっせいに舞台から貴婦人へと注がれましたが、薄い絹を透かして体の線を見せるという古代 ローマ人の美意識にとって、
絹はもっとも適した 上品で美しい織物でした。

紀元前 1 世紀に古代 ローマ帝国が エジプトを占領すると、絹と 香辛料を求めて海路 インドに進出しました。 ローマでは
金と同じ重さの価値がある とされた絹に対する批判も強く、カエサル ( Caesar、シーザーともいう ) の養子で初代 ローマ帝国の 皇帝となった アウグストゥス [ Augustus 、尊厳なる者という意味の称号で、本名 オクタビアヌス ( Octavianus ) ] は法令を定め、全ての人に
絹の衣服着用を禁じました 。しかし効果はありませんでした。

第 16 代 ローマ皇帝 マルクス ・ アウレリウス ・ アントニヌス ( Marcus Aurelius Antoninus、五賢帝時代の最後の皇帝、121〜180 年 ) は、皇后が
絹製の ローブ ( Robe、右が その類形 ) が欲しい と懇願 ( こんがん、おりいって頼み願う ) したのを拒絶して模範を示しましたが、それでも絹の衣装着用の流行は止みませんでした。写真は古代 ローマ人が好んだ 「 透け 透け ルック 」 ですが、現代にも通用しています。
[ 12 : 日本の近代化を支えた生糸 ]
慶応 3 年 ( 1867 年 ) の 15 代将軍、徳川慶喜 ( よしのぶ ) による大政奉還、王政復古により翌年に発足した明治新政府は、
富国強兵 ・ 殖産興業 ( しょくさん こうぎょう、生産物を増やし 産業を盛んにすること ) を スローガンに掲げると共に、政府主導による産業の育成を始めました。

まず フランスから繰糸機 ( そうしき、 マユから糸を巻き取る機械、Reeling Machine、注 1 参照 ) や蒸気 エンジン等を輸入し、群馬県 ・ 多野郡 ( 現 ) 富岡市に官営模範工場を作り、日本初の機械製糸工場である
富岡製糸場 を建設しましたが、操業を開始したのは新政府樹立から僅か 4 年後の
明治 5 年 ( 1872 年 ) のことでした。
工場設備規模としては、敷地面積 約 5 万 7 千 u、建築面積 約 1 万 8 千 u、繰糸機 300 釜 ( 注 参照 )、女工 246 人、その他総計 462 人で、工費約 20 万円 ( 当時の金 1 グラムが 0.67 円、ちなみに 2013 年 3 月 15 日 の価格は 5,184 円 ) で進められました。
注 : 釜とは
繰糸機の台数の単位のことで、1 釜とは生糸を 20 本繰ることができる規模をいい、300 釜とは同時に 6,000 個の マユ から カイコ 糸を繰ることが可能な台数。
( 12−1、富岡が官営模範工場の設置場所に選ばれた理由 )
- 富岡付近は古くから養蚕が盛んで、生糸 ( きいと ) の原料であるマユの確保が容易である。
- 工場建設に必要な広い土地が確保できる。
- 製糸に必要な水が既存の用水を使って確保できる。
- 蒸気機関の燃料となる石炭が、近くの 多野郡 ・ 吉井村 ( 現 ) 高崎市 付近で採掘可能。
- 製糸工場建設及の監督および製糸機械の操業指導に、お雇い外国人が来ることを地元住民が同意した。
からでした。
それと共に新政府は国民に養蚕 ( ようさん ) や製糸業を奨励しましたが、これにより生産された生糸 ( きいと、注 2 参照 ) を輸出して外貨を獲得したので、製糸産業は日本経済を支える基幹産業として発達し、得られた外貨は日本の近代化に役立ちました。
注 1: 操糸機 ( そうしき ) とは
熱湯で中の 「 さなぎ 」 を殺した マユから繭糸 ( けんし、マユの糸 ) を引き出し、それを 5 本〜10 本程度合わせて集束し、一定の太さの生糸を小枠に巻き取る作業機械で、品質の統一された優良絹糸が大量に生産できる。
注 2 : 生糸 ( きいと ) とは
カイコの マユ から繰り出された細い 「 マユ糸 」 を、 上記のように繰 ( く ) り合わせたものだが、このままでは生地に織ったり染色などの加工には不適である。そこで生糸の表面にある タンパク質の セリシン ( Sericin ) を アルカリ性の薬品 ( 石鹸 ・ 灰汁 ・ ソーダなど ) で処理して 生糸の表面から取り除くと 、初めて絹の光沢や柔軟さが増すが、この処置を生糸を練 ( ね ) るという。
( 12−2、生糸生産量の国別割合 )
はるか大昔に中国から絹の道を経由して中央 アジアに伝わった カイコと桑が、さらに ヨーロッパ各地に広がりましたが、19 世紀後半 ( 明治初期 ) に世界で 四大蚕糸 ( さんし ) 業国といわれたのは、意外なことに
フランス ・ イタリア ・ チャイナ ( 清国 ) ・ 日本 でした。
現在世界の有名な プレタポルテ ( 高級既製服 ) の発表 ・ 商談は主に ニューヨーク ・ ロンドン ・ ミラノ ( イタリア ) ・ パリ ( フランス )の 4 都市で毎年開催されますが、このうち フランスと イタリアについては、昔からの生糸の生産を初めとする繊維産業 ・ 服飾など ファッション関連産業が盛んな土地柄であったのが関係していました。
生糸 ・ 世界生産量に占める 国別の割合 ( 年平均 )
明 治 | 世界生産量 ( 単位、トン ) | フランス ( % ) | イタリア ( % ) | チャイナ ( % ) | 日 本 ( % ) |
11年〜15年 1878年〜 | 9,434 | 6.4 | 28.3 | 42.7 | 12.0 |
21年〜25年 1888年〜 | 12,015 | 5.4 | 26.8 | 35.5 | 20.7 |
31年〜35年 1898年〜 | 17,339 | 3.5 | 19.9 | 39.1 | 22.9 |
41年〜大 正 元 年 1908年〜 | 24,386 | 2.1 | 16.5 | 30.9 | 36.7 |
大 正 2 年〜6 年 1913年〜 | 25,419 | 1.0 | 13.3 | 28.6 | 49.9 |
大 正 12年〜昭和 2年 1923年〜 | 40,090 | 0.7 | 11.5 | 20.5 | 64.3 |
昭 和 3 年〜7 年 1928年〜 | 44,499 | 0.3 | 9.6 | 15.6 | 71.9 |
( 日本蚕糸業史 第 1 巻、第 2 巻 )
上表から分かるように明治 11 年 〜 15 年の年平均で、日本における生糸の生産量は世界の僅か 12 パーセントでしたが、明治 41 年 ( 1908 年 ) 〜 大正元年 ( 1912 年 ) には チャイナ ( 清国 ) を抜いて
世界第 1 位になり 、それ以後昭和初期には全世界の生糸生産量の
71.9 パーセント を占めるまでになりました。
生糸で稼いだ外貨を基に国の近代化 ・ 富国強兵を図りましたが、明治 18 年 ( 1885 年 ) 以降、生糸の最大の輸出先は
アメリカ になりました。生糸の輸出を支えたのは養蚕農家の働きで、特に昔から養蚕が盛んだった群馬、長野、山梨の いわゆる養蚕県では、農家の
7 割が養蚕農家 で占められていました。
( 12−3、生糸輸出量の拡大 )
下表によれば、明治 11 年 ( 1878 年 ) の輸出指数を 100 とした場合、34 年後の大正元年 ( 1912 年 ) には指数が 1,176.8、つまり
11.76 倍 となり、大正 6 年 ( 1917 年 ) には指数が 1,777.3 つまり
17.77倍 となりました。
日 本 の 生 糸 輸 出 数 量
( 単位 : 1 俵は重さ 60 キログラム )
明治 ( 西暦 ) | 数量( 俵 ) | 指数 | 明治 ( 西暦 ) | 数量( 俵 ) | 指数 |
11年 (1878) | 14,533 | 100 | 35年 (1902) | 80,782 | 555.9 |
15年 (1882) | 28,943 | 199.2 | 40年 (1907) | 93,544 | 643.7 |
20年 (1887) | 31,472 | 216.6 | 大 正 元年 (1912) | 171,026 | 1,176.8 |
25年 (1892) | 54,315 | 373.7 | 大 正 5 年 (1916) | 217,420 | 1,496.0 |
30年 (1897) | 69,199 | 476.2 | 大 正 6 年 (1917) | 258,290 | 1,777.3 |
( 高崎経済大学論集 第 44 巻 第 4 号 2002 )

大正時代初期 ( 1912 年 〜 ) から昭和初期 ( 1926 年 〜 ) にかけて東京近郊の農家では、
「 百円札を見たければ蚕 ( カイコ ) を飼え 」 というほど、養蚕による現金収入がありました。
昭和初期の大卒 サラリーマンの初任給も 100 円程度でしたので、初任給で換算した場合、当時の 100 円札の価値は、 現在の
20 万円に相当 しました。写真の紙幣は大正 6 年 ( 1917 年 ) から昭和 2 年 ( 1927 年 ) まで発行されたものです。
その当時太平洋を横断して アメリカへ向かう貨物船や客船には、生糸専用の船艙 ( せんそう、シルク ・ ルーム、Silk Room ) を装備した船を運航し、航海中は シルク ・ルーム の換気や温度 ・ 湿度を調節するなど、品質管理の点でも細心の注意を払いながら生糸を輸送しました。

写真は昭和 5 年 ( 1930 年 ) から太平洋航路に就航した豪華客船 ・ 日本郵船 ( 株 ) の龍田丸 1,6000 トン ( 速力 19 ノット ) ですが、もちろん シルク ・ルーム を装備し アメリカへの生糸輸送をおこないました。
太平洋戦争開戦により客船も海軍に徴用されましたが、昭和 18 年 ( 1943 年 ) 2 月に横須賀から マーシャル群島にある トラック島 ( 現 ・ チューク諸島、Chuuk Islands ) に兵士を輸送する途中に、伊豆諸島の御蔵島 ( みくらじま ) 東方海上で米国の潜水艦に雷撃され、1,500 名の兵士と共に沈みました。
[ 13 : 敗戦後の絹 ]
太平洋戦争により生糸や絹織物の対米輸出は中断されましたが、その間に アメリカでは絹に代わり軍需用に開発した化学繊維の 「 軽くて強い 」 ナイロンの開発 ・ 生産により、アメリカ人女性の ストッキングに代表される絹の需要が減少しました。さらに日本の国民を苦しめた
戦中 戦後の食糧不足 を補うために、農家も食料生産に専念したために、養蚕をするどころではなくなりました。
しかし日本の復興のためには食糧の輸入が絶対に必要であり、外貨獲得という国の方針から生糸 ・ 絹織物産業に必要な養蚕が、再び奨励されるようになりました。ところが昭和 25 年 ( 1950 年 ) に朝鮮戦争 ( 1950 〜 1953 年 ) が勃発 ( ぼっぱつ、急に発生すること ) したことにより、日本に特需景気 ( とくじゅけいき ) をもたらしました。
戦争に対応するために、米軍が日本企業に大量に繊維 ・ 鉄鋼製品を発注しましたが、その額は 3 年間で
10 億 ドル ( 当時の為替 レートで 3,600 億円 )、間接特需 36 億 ドル をもたらしたために、生糸需要が増大して マユの価格は上がり、さらに マユ不足の状態が起こりました。国内景気の回復により呉服 ( ごふく、注 参照 ) を初めとする
絹の需要が増えた ことで、養蚕業も活気を取り戻しました。
注 : 呉服とは
中国で魏 ( ぎ ) ・ 呉 ( ご ) ・ 蜀 ( しょく ) の三国が抗争した三国時代 ( 220〜280 年 ) に、呉の国から日本に伝わった機織り技術によって作った織物を呉服 ( ごふく ) と称したが、現在は 「 和服 」 の同義語として使われている。元々は 絹製品 のことを呉服といい、 綿製品 を太物 ( ふともの ) と呼び、扱う商店もそれぞれ別であった。
( 13−1、絹織物生産量の推移 )
旧経済企画庁の、昭和 31 年度 ( 1956 年 ) に発表された経済白書 ( 副題 : 日本経済の成長と近代化 ) の結びの言葉は、太平洋戦争後の日本の復興が終了したことを指して、
「 もはや戦後ではない 」 と記述され流行語にもなりました。
その後の経済高度成長につれて絹の国内需要がさらに増加し、もともと貿易上の自由化品目であった生糸は、中国や韓国からも輸入されるようになりました。下表の昭和 34 年 ( 1959 年 ) における絹織物の生産量は 2 億 2,158万6千 平方 メートル となり、
敗戦後の生産量の最高 を記録しました。
昭 和 28 年 〜 現 代 ま で
( 単位 : 千 平方メートル )
昭和 | 西 暦 | 生産量 | 平成 | 西 暦 | 生産量 |
28年 | 1953年 | 142,142 | 元年 | 1989年 | 96,679 |
30年 | 1955年 | 174,603 | 5年 | 1993年 | 71,364 |
34年 | 1959年 | 221,586 | 10年 | 1998年 | 40,440 |
45年 | 1970年 | 200,812 | 15年 | 2003年 | 24,658 |
50年 | 1975年 | 168,472 | 20年 | 2008年 | 14,043 |
60年 | 1985年 | 114,538 | 23年 | 2011年 | 10,418 |
( 経済産業省 繊維統計 )
( 13−2、絹織物産業の衰退 )
絹織物は繊維産業の中でも特異な存在で、和服という固有の市場に大きく依存すると共に、個人所得の変動に伴い
消費が顕著に変動する商品 でもありました。昭和 40 年代に入ってからも好景気に伴い和服の需要が増大し、昭和 45 年 ( 1970 年 ) には 戦後二番目の ピークとなる 2 億 81 万 2 千平方 メートルの絹織物を生産しました。
しかしその後は着物愛好家であった高齢者の世代交代 ・ 生活様式の変化により、人々の間で次第に着物離れが進むようになり、それに伴い養蚕業もまた 衰退の一途をたどりました。
[ 14 : 諸行無常 、 盛者必衰 ]
かつては世界第 1 位の生産量を誇った日本の養蚕や生糸産業も、その後の環境の変化に対応できずに
壊滅的な状態 になりました。
昭和 4 年 ( 1929 年 ) の養蚕 ピーク時には国内の全農家
600 万戸 のうち、
約 4 割 に相当する
220 万戸 で養蚕がおこなわれていました。ところが平成 20 年 ( 2008 年 ) 度蚕業に関する統計によれば、養蚕農家の戸数は全国で僅か
1,021 戸 ( うち群馬県が 400 戸 ) に過ぎず、生糸の国内生産量は年間僅か
395 俵 = 約 24 トン に激減しました。
今では日本で必要とする生糸 ・ 絹製品の
99 パーセント は、中国や ベトナムからの輸入に頼るのが現状です 。その理由は国内産の マユの コストが 1 キログラム当たり 15,000 円〜 20,000 円程度であるのに対して、輸入 マユの価格は 1 キログラム当たり 2,000 円程度、つまり日本産の僅か
10 〜 13 パーセント に過ぎないという価格の安さに原因があります。
TPP 参入以前でさえ、安い外国製品の輸入が日本の養蚕業 ・ 生糸産業に及ぼした
結果 でした。さらに平均年齢 69 才といわれる養蚕農家への新規参入は全国で年間僅か数戸にとどまり、 「 蚕糸業 経営安定 対策事業 」 からの補助金支出 によっても、養蚕農家の減少はもはや止められない状況にあります。
生活様式の変化から男女ともほとんど着物を着なくなり、 旅館 ・ 日本料理店の女性従業員の着物は洗濯可能な化学繊維製品ですべて占められ、大学の卒業式で女子学生が着る着物や、頼みの綱の成人式の女性の晴れ着でさえ最近は安価な化繊製品が増え、 手触 ( ざわ ) りで違いが分かるものの
見た目には絹と変わらない のだそうです。
さらに追い打ちを掛けたのが昨今の地球温暖化に伴う クール ビズ の励行により、夏でも売れた絹製 ネクタイの需要まで急落する事態となり、養蚕業 ・ 生糸業界の前途はお先真っ暗で、
今や 「 瀕死の状態 」 にあります。

この現状を見ると、平家物語の冒頭にある
諸行無常 や 、 沙羅双樹 ( さらそうじゅ ) の花の色、 盛者必衰 ( じょうしゃ ひっすい ) の理 ( ことわり ) をあらわす 、という言葉が思い出されるのも無理からぬことです。
沙羅の花は 朝 ( あした ) に咲き 夕 ( ゆう ) べには花の形のままで散る 1 日花ともいわれ、儚 ( はかなさ ) の象徴 とされますが、写真は インド原産の常緑高木である 「 サラソウジュ 」 ではなく、日本で 沙羅樹 ( サラノキ ) として代用されている、ツバキ 科 ナツツバキ 属の落葉高木の ナツツバキ です。