◆ きっと熱いくちびる ◆



 一陣の風がひょおと耳元を吹き抜ける。それは思った以上に冷たくてKIDの火照った頬を気持ちよく撫でた。その遥か足元ではミニチュアのように小さいパトカーが赤色灯を回しながらけたたましくKIDのいるビルからはまるで見当違いの方向へ走り抜けていくのが見えた。
「…ばぁか。そっちじゃねえっての」
超高層ビルの屋上のさらに上にある給水塔からそれを眺めていたKIDの眼差しはくすくすと笑う口調とは裏腹に醒めていた。けれどよく見てみるとその瞳は熱っぽく潤んでいてまるで熱病患者のそれのようだ。
 KIDはふらふらと右手を掲げて今夜も自分を冷たく照らす月明かりにまさについさっき警察との捕り物劇の末に(最もKIDにとっては取るに足らない稚拙な三文芝居に過ぎなかったけれど)手中に収めた某大国のエメラルドを翳してみた。深い森のように輝くそれは神秘的な光を顔の上に落としたけれどそこに求めていた魔性の光はなくてKIDは小さく息を吐いた。
「まぁたハズレ…か」
なんとなく予想はついていたから思ったよりもダメージはない。でも可能性がゼロじゃない限り何もしない訳にはいかない賽の河原の石積みのような虚しさに心は確実に疲弊していく。
「まあこの貴石じゃないって分かっただけでも前進ってことかな」
KIDはそう呟いて肩を竦めると眼下に広がる光の洪水に背向けて屋上の入口の鉄製のドアに向き合った。風の音に混じって少し前からここに上がってくる一組の足音をKIDの耳は捕らえていた。
 やがて程なくして錆びて赤黒くなったそれが耳障りな音を軋ませて開くとぜいぜいと肩で大きく息をする中年刑事が姿を現した。
「おや、漸くお目見えですか?中森警部殿。待ち草臥れましたよ。最もここまで階段を上ってくるには警部には少々酷でしたか?」
月明かりを背にしたKIDがからかうようにそう言うと酸欠のせいだけじゃないそれでわなわなと身体を震わせた中森は真っ赤になって怒鳴った。
「きっ、貴様が変な小細工してこのビルのエレベーターさえ止めなかったらもっと早く着いとったわ!」
「無粋な警官を大量にここに送り込まれたら折角の警部とのデートが台無しになりますからね」
「階段が使えるんだからそんなことしたって無駄だ」
それでも律儀に単身で乗り込んでくるところがいかにも人のいい中森らしくてKIDは心の中で小さく微笑む。
「それよりわざわざこんなところに呼び出して何のつもりだ?いい加減観念して大人しくお縄につく気になったか」
「まさか」
KIDは中森の台詞に大仰に肩を竦めるとすとんと給水塔からコンクリートの屋上に飛び降りた。ふらりと足元がよろけそうになるのをかろうじて体勢を立て直す。急に給水塔から飛び降りたKIDの真意が掴めない中森が身構えるのが視界の端に映る。

 そんなにビビんないでも罠なんて仕掛けてないってば

 KIDの中の快斗の部分がそんな中森の態度に苦笑を浮かべさせる。
「先ほど保護者の貴方の反対を押し切って連れ出したお嬢さんをお帰ししようと思ってお呼びしただけです」
「…娘を夜遊びに連れ出すけしからん奴は補導されるのが世の常だろう」
束の間のランデブーだけでもう盗んだ宝石を返すと言うKIDの不可解な行動はいつものことだ。中森にはそれが警察を小馬鹿にしているように思えてどうにも腹に据えかねる。
「補導ねえ…。警部にだったら補導されてみるのもいいかもしれないなあ…」
さっきまでの慇懃なそれから打って変わって砕けた口調で笑いながらふらふらと近付いてくるKIDを中森は訝しげに見る。
「貴様…酔ってるな?」
夜風に乗ってKIDから僅かにアルコールの匂いが漂ってくる。足元が覚束ない理由もそれで解釈出来る。
「不良は不良らしくしてみようかなって思ってさ」
本当は摂取したのはそれだけじゃない。解熱剤とアルコールという最悪のチャンポンだ。
「…貴様、未成年なのか?」
ほんの1メートルほどの距離を空けて向き合ったKIDの素顔はモノクルで隠されていてそれが真実かどうか判断できない。最も何も付けていなくても相手は変装の名手だ。
「さあ、どうでしょう」
 あどけないほどの仕草で首を傾げたKIDはついと無造作に握った右手を中森に差し出した。その中には盗んだ宝石が握られているのだろうと頭では理解していても尚咄嗟に動けない中森をKIDは不思議そうに見上げる。
「捕まえたかったんじゃないの?」
確かに手を伸ばせば届く距離にKIDはいる。けれどいつもとは様子の違うKIDに中森は苦々しく顔を背けた。
「…酔って盗みを働く不真面目な輩に腹を立てているだけだ」
「…ぷっ」
その台詞を聞いた途端KIDは小さく吹き出した。そしてよっぽど可笑しかったのか笑い上戸なのかいつまでも笑いが止まらない。
「怪盗に真面目も不真面目もないんじゃねえ?」
「う、五月蝿いわっ。真面目に貴様を捕まえようとしてる我々を馬鹿にするなと言ってる…っ??!」
笑い続けるKIDに剛を煮やした中森が怒鳴りつけようと顔を上げた途端、行き成り目の前を影が覆い尽くして絶句する。
「???!」
「ん…」
胸の中に白い塊が収まって、それは中森の首に自分の両腕をぎゅっと回して抱き付いていた。口唇に押し付けられた熱い何かに、KIDに口唇を奪われていることを理解したのは一番最後だった。一瞬で頭の中が真っ白になって次にはKIDを突き飛ばしている。
「うわ…っ?!」
「ばっ、馬鹿モンっ!貴様何を…っ!!!」
よろけたKIDを睨みつけながら中森は真っ赤になって背広の袖で口元を必死に擦る。と、違和感を感じて中森は自分の口の中を舌で探った。やがて舌先に硬い何かが当たって掌にそれを吐き出す。
「お嬢さんは確かに保護者の貴方にお帰ししましたよ」
掌の上の宝石を呆けたように見ていた中森がその声にはっと顔を上げると、いつの間にか再び給水塔の上に立っていたKIDが中森を見下ろしていた。
「馬鹿モン!!もっと普通に返せんのかっ!」
「いいじゃないですか。偶には役得でもないと鬼を恨みたくなってしまいますから」
 積んだ石を目の前で崩される虚しさをこの人は知らない。だからこそ縋りたくなる。特にこんな風に身体が心より正直に悲鳴を上げている冷たい夜は。
「役得…?鬼だと…?」
「いえ、こちらのことです」
訝しげに睨む中森に小さく苦笑してKIDはずれてしまったシルクハットを深く被り直した。
「あっ、こら貴様逃げる気か!」
気配を敏感に読み取った中森が給水塔に駆け寄ってくるより早くKIDはふわりと空中に身を浮かべた。
「今宵は警部のお情けに甘えて退散することにします。次はちゃんと真面目に盗みますからお相手願いますよ、警部」
「真面目に盗むくらいならもう盗むんじゃないっ!第一ワシは情けなんて掛けておらんぞっ!」
心外だとばかりに真っ赤になって怒鳴る中森をKIDはくすりと笑って見下ろした。
「そんなところが情けを掛けてるんだよ、警部…」
そう小さく呟いたKIDは次の瞬間、夜風と共に消え去った。
「KID!!!」

 夜空を見上げていた中森の頬にふわりと一片の深紅の薔薇の花弁を落として。ベルベットのような肌触りのそれはまるでさっき触れたKIDの熱い口唇にも似ていて中森が屋上で一人赤くなったことをKIDは勿論知らない。



◆了◆

…すみません。
どーにもこーにもネタが浮かばなくて○時間で仕上げました(殴)
次こそはイチャラブを書きたいですー!


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