キリシタンと、支倉常長
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[ 1 : はじめに ]![]() ( 1-1、日本人初の ヨーロッパ 留学生 ベルナルド ) 日本で初めて キリスト教を布教したのは 1549 年 8 月に鹿児島に上陸した イエズス ( Iesus ) 会士の フランシスコ ・ ザビエル ( Francisco Xavier ) でした。彼は通訳兼案内人として鹿児島出身の元海賊で殺人犯の ヤジロー ( または アンジロー )を伴いましたが、ヤジローは東西交通の要衝 ( ようしょう、大切な地点 ) マラッカ海峡に面した港町 マラッカ ( Malacca ) で、ザビエルにより洗礼を受けた日本人初の キリスト教徒でした。 ![]() 2 年 3 ヶ月間の布教を終えた ザビエルが、 1551 年 11 月に 日本を離れる際に 五人の日本人青年を外国に伴いましたが、ベルナルドもその中の一人に選ばれました。 五人は インドの西岸にあり アラビア海に面した港町、 ポルトガルの植民地 ゴア ( Goa ) まで ザビエルと共に旅をしましたが、ゴアにある イエズス会の セミナリオ( seminario、初等教育神学校 ) で キリスト教を学びました。 その後ある者は日本に引き返し、あるいは ザビエルと中国に行く途中に広東付近で船が沈没し ザビエルと共に行方不明になり、あるいは病死した者もいて、ベルナルドだけが更に キリスト教を学ぶために ポルトガルの首都 リスボンに向けて旅を続けました。 リスボンから イタリアの ローマへ行き、 ローマ教皇庁で イエズス会創立者の イグナティウス ・ デ ・ ロヨラ ( Ignatius de Loyola 、1491~1556 年 ) に会い、さらに ローマ教皇に謁見を許されました。 彼 ( 鹿児島の ベルナルド ) は日本人初の ヨーロッパ留学生であり、また ローマ教皇 ( パウルス、 Paulus 4 世 ) に拝謁した最初の日本人でしたが、1557 年に ポルトガルで病死しました。( 1-2、天正 遣欧少年使節 )
![]() ( 日本 ) の国民は有能で秀でた理解力を有し、子供たちは我らの学問や規律をすべてよく学びとり、ヨーロッパの子供たちよりも はるかに容易に、かつ短期間に我らの言葉で読み書きすることを覚える。 また下層の人々の間にも、我ら ヨーロッパ人の間に見受けられる粗暴や無能力ということがなく、一般にみな優れた理解力を有し、上品に育てられ、仕事に熟達している。( 以下省略 )日本の イエズス会信者を ヨーロッパに派遣することについては、彼が 一人で計画しましたが、 イエズス会による極東での 布教の成果を ヨーロッパに宣伝するための道具 として、信者の少年 4 人を派遣したものでした。 派遣の前年である天正 9 年 ( 1581 年 ) 当時、 日本における キリシタン ( 切支丹 = ローマ ・ カトリック教の信者 ) の数は 15 万人 といわれ、そのうち 11 万 5 千人 が鎮西 ( ちんぜい、西九州 ) にいました。さらにそのうちの 7 万人 が大村領 ( 長崎 ) にいたといわれています。 なお大友宗麟 ( そうりん ) が治める豊後 ( ぶんご、大分 ) には約 1 万人 、京都を中心にした 五畿内 [ きない、大和 ( やまと ) ・ 山城 ( 山背、やましろ ) ・ 河内 ( かわち ) ・ 和泉 ( いずみ ) ・ 摂津の五箇国のこと ] には 2 万 5 千人 の キリシタンがいました。 そこで九州の キリシタン 大名 ( 洗礼を受け信徒となった大名 ) の 大友宗麟 ( 豊後国 大分 ) ・ 大村純忠 ( 肥前国 大村 ) ・ 有馬晴信 ( 肥前国 日野江 )などは、名代 ( みょうだい、代理 ) として 13~14 歳の 武家出身の少年 4 名 を選び ローマへ派遣しましたが、彼らは 天正遣欧 ( てんしょう けんおう ) 少年使節 と呼ばれました。 ちなみにその後の キリシタン 信徒の数は、天正 15 年 ( 1587 年 ) には 20 万人 ・ 慶長 10 年 ( 1605 年 ) には 75 万人 に達したといわれています。
[ 穴吊りとは ]参考までに 千々石 ( ちぢわ ) ミゲル だけは ローマから帰国後 3~4 年も経たないうちに キリスト教を棄教しましたが、それだけでなく 「 キリスト教国は キリスト教を広めると共に、日本への侵略を計画している 」 などと、肥前国大村藩主、大村純忠 ( すみただ、1587 年に死亡 ) の長男の大村喜前 ( よしあき ) に告げるなど、キリスト教に反対する立場に転向しました。 一説によればその理由は、南蛮人によって日本から奴隷として売られた多数の日本人奴隷の存在を見聞し、また スペインや ポルトガルの植民地で虐 ( しいた ) げられた現地住民を見るなど、キリスト教がもたらした 暗部 ・ 恥部を ヨーロッパへの往復の旅で見たため ともいわれています。 ![]() [ 2 : サン ・ フェリペ 号事件]信長の後継者 豊臣秀吉の時代 ( 1585 年 関白任命 ~ 1598 年 ) になると、貿易のために来航した ポルトガル船の南蛮人たちは宣教師と グルになり、神の教えを説き キリスト教を布教しながら、その 一方で彼らの仲間の奴隷商人たちが日本で多数の男女や子供を安い値段で買い取り、 外国に奴隷として売却し巨利を得ていていました 。 この事実を知った秀吉は 1587 年に、伴天連 ( バテレン、ポルトガル語の Padre パードレ、宣教師 ・ 司祭 ) を国外追放処分とし、京坂 ( 阪 ) 地域の南蛮寺 ( 教会 ) の破壊を命じました。![]()
我らが王 ( スペイン ) は、まず宣教師を派遣してその土地の住人を キリスト教徒にする。そして信者が増えたら後から軍隊を送って、その土地の キリスト教徒と結託して国を奪うのだ。つまり キリスト教を道具にした宣教師の軍事的 ( 先兵的 ) 役割を話しましたが、これが引き金となって 秀吉は スペインに武力侵攻の意図ありと考えて、 1596 年 12 月 8 日に再び禁教令を公布し キリスト教に対する弾圧をおこない、日本における初の殉教者を出す事態になりました。 ![]()
[ 3 : リーフデ号の漂着 ]![]() ![]()
ちなみに リーフデ 号は日本に到着した初めての オランダ 船であり、ウィリアム ・ アダムス は日本を訪れた最初の イギリス人でした。 江戸幕府の外交顧問になった ヤン ・ ヨーステン ( Jan Joosten、1556?~1623 年 ) は土地 ・ 屋敷を与えられ、日本人女性と結婚し日本名を耶楊子 ( やようす ) と称しました。 ![]() 彼が与えられた海辺の土地は、ヤン ・ ヨーステンの名前から八代州 ( やよす ) と呼ばれ、現在は東京都 ・ 中央区 ・ 八重洲 ( やえす ) となり、東京駅の東側一帯の地名として残っています。 [ 4 : 対 キリシタン政策の変遷と海外貿易 ]1573 年 織田信長 ( 1534~1582 年 ) は室町幕府の将軍、足利義昭を京都から追放し天下統一を目指しましたが、彼の キリシタン政策は、後の豊臣秀吉 ・ 徳川家康に比べてはるかに寛容でした。 その理由は彼と敵対した 一向宗や比叡山焼き討ちなどに見られる仏教武装勢力 ( 僧兵など )との抗争があったからであり、1569 年に信長は、ポルトガル人の イエズス会宣教師 ルイス ・ フロイス ( Luis Frois ) に キリスト教の布教を許す代わりに、海外の情報を提供する情報源として使いました。 これにより西日本各地、特に九州に大友宗麟 ( そうりん、豊後国 大分 ) ・ 細川忠興 ( ただおき、豊前国 小倉 ) などの キリシタン大名が生まれましたが、信長はあくまでも キリスト教を政治的に利用したのであって、他の キリシタン大名のように教義に夢中になり入信することはありませんでした。( 4-1、キリシタン布教容認と貿易の兼ね合い ) ところで関ヶ原の戦い ( 1600 年 ) に勝利した徳川家康は、その後の 大阪 冬の陣 ( 1614 年 11 月 ) ・ 夏の陣 ( 1615 年 5 月 ) の戦いにより大阪城に立て籠もる豊臣秀頼を滅ぼしましたが、 当初は秀吉とは異なり キリスト教の布教を容認 しましたが、その意図は織田信長と同様に、対外貿易を発展させるために宣教師を利用するためでした。 外国貿易については基本的に豊臣秀吉のおこなった政策を踏襲 ( とうしゅう、前人のやり方を受け継ぐこと ) し、秀吉が定めた 朱印船貿易 ( 注 参照 ) を制度化すると共に、貿易を幕府の認可制にし、貿易港の長崎を直轄領として奉行所を設け対外貿易を保護奨励して利益を上げました。
注 : 朱印船 とは ( 4-2、 キリシタンの教え ) キリシタンとは前述したように室町時代後期 ( 1549 年 ) に スペイン人の フランシスコ ・ ザビエルによって ヨーロッパから伝えられた ローマ ・ カトリック系 キリスト教に対する呼び名ですが、ポルトガル語の Christ`ao が語源とされ、 宗教に対してだけでなく その信者、教会 についても キリシタンの呼称が用いられました。その 「 教え 」 によれば、
[ 5 : スペイン船の座礁 ]慶長 14 年 ( 1609 年 ) 9 月のこと、ルソン ( フィリピン ) の マニラから当時 スペイン ( イスパニア ) の植民地だった ノ ビスパニア ( ラテン語の Nova Hispania、新しい イスパニアの意味で メキシコ のこと ) へ向かっていた スペインの ガレオン ( Galleon ) 船 サン ・ フランシスコ号が、嵐のため房総半島の御宿 ( おんじゅく ) 沖で遭難し漂着しました。 その船から スペインの フィリピン臨時総督だった、 ドン ・ ロドリゴ ( Don Rodrigo ) 以下 373 名 が救出されました。徳川家康は ノ ビスパニア ( メキシコ ) との貿易の交渉を行うため、ロドリゴを引見しましたが、その際に通訳を務めたのが スペイン人で フランシスコ会 宣教師の ソテロ ( Luis Sotelo、1574~1624 年 ) でした。彼については後述するので名前を記憶しておいてください。 ロドリゴは自らを含む スペイン人乗客 ・ 乗組員全員を ノ ビスパニア ( メキシコ ) に送るよう要望したので、徳川家康は彼らの願いを叶えるために日本で ウイリアム ・ アダムスが建造した帆船で、彼らを メキシコ南部の太平洋岸の港町 アカプルコ ( Acapulco ) に送り届けました。 ロドリゴ 一行は メキシコの陸路を歩き カリブ海沿岸の港 ベラクルスから スペインの船に乗り、無事に祖国へ帰ることができました。 それに対するお礼の意味から、慶長 16 年 ( 1611 年 ) に、 イスパニア ( スペイン ) から 探検家の セバスチャン ・ ビスカイノ ( Sebastian Vizcaino ) が答礼大使という名目で日本を訪れました。慶長 16 年 ( 1611 年 ) ビスカイノが江戸から仙台にやってきましたが、目的は マルコポーロ ( Marco Polo 、1254~1324 年 ) が記した 東方見聞録 ( イタリア語で百万という意味の本のタイトル、注参照 ) にある黄金の国 ジパング伝説から、 金銀島 という金や銀のたくさん出る島があると信じていたため、それを探し当てようとしたのでした。そのためこの目的を秘密にしたまま、家康や伊達政宗から日本東海岸の測量や探検の許可をもらいました。
注 : 百万 ( イル ミリオーネ )とは家康は日本訪問を終えた スペイン答礼大使の帰国船を利用して ノ ビスパニア ( メキシコ ) と交易する意図を持ちましたが、同じ目的を持つ奥州 62 万石の 大名 伊達政宗もこの機会を利用して家臣の支倉常長を スペイン船に同乗させました。ところが日本から出港直後に不運にも暴風に遭い、江戸に戻る際に浦賀沖で座礁し破損してしまいました。 その結果徳川幕府は、 キリスト教 ( プロテスタント ) の布教を日本に求めず、もっぱら貿易通商のみに専念する オランダとの関係を深めるようになり、距離的にも ルソン ( フィリピン ) へ行くよりも 四倍も遠く離れた ノ ビスパニア ( メキシコ )へ、太平洋を横断する航海をしてまで貿易する意義や意欲が、徳川幕府にとって薄れていきました。 [ 6 : ガレオン船の建造 ]そこで伊達政宗は幕府に代わって、答礼大使 ビスカイノ を ノ ビスパニア ( メキシコ ) へ送り返すことになり、必要な大型帆船 ( ガレオン船 ) を仙台藩で造ることにしましたが、もちろん幕府の許可を得てのことでした。 慶長 18 年 ( 1613 年 ) 3 月 初めに、仙台領内の陸奥国 ・ 桃生郡 ・ 十五浜村 ・ 呉壺 ( 現 ・ 宮城県石巻市 ・ 雄勝町 ・ 水浜 ) で大型帆船の建造を始めましたが、この造船工事には幕府からの船出頭 ( 船手奉行 ) の向井忠勝が ウィリアム ・ アダムスと共に石巻まで出向いて指導に当たりました。 船大工 800 人、金具職人 700 人、下働き人夫 延べ 3 千人を動員し、帰国する船を座礁で失った スペイン答礼大使の セバスティアン ・ ビスカイノにも協力させて建造しました。この船は日本初の 500 トン級の ガレオン船で完成に 5 ヶ月を要しましたが、横幅 5 間半( 約 10 m )、長さ 18 間 ( 約 33 m ) あり、船の名前は 「 サン ・ ファン ・ バプチスタ号 」 ( San Juan Bautista 、聖 ヨハネ 洗礼号 ) と名付けられました。 船名の由来については スペイン人 ビスカイノ 一行と伊達政宗の江戸市中での出会いの日 ( 1611 年 6 月 24 日 ) が、古代 ユダヤの宗教家 ・ 予言者で、ヨルダン川で イエスらに洗礼を授け た 、「 洗礼者 聖 ヨハネ 」 の祭日に当たっていたことから命名されたともいわれています。( 6-1、ソテロと政宗の出会い ) 慶長遣欧使一行が スペインを訪れた際に イタリア人の歴史学者 シピオーネ ・ アマティが、通訳兼交渉係として首都 マドリード出発時から ローマまで使節に付き添いましたが、彼は 1615 年に 「 伊達政宗遣使録 」 を イタリア語で記し出版しました。その中には政宗と ソテロの出会いから、使節の派遣に至る経過、スペイン国王 フェリペ( Felipe ) 三世や ローマ教皇 パウロ ( Paulus ) 五世との謁見とその後まで、たいへん詳しく記されています。 ![]() すると ソテロは利益を得るために治療したのではなく、神のためであるとして受け取りませんでした。 そこで政宗は ソテロと医師を歓待の宴に招待しましたが、その席で ソテロの祖国 スペインや キリスト教のことなどを聞き、世界の知識を広め世界情勢を得ることができました。このことが遣欧使節の派遣先を ノ ビスパニア ( メキシコ ) だけに留まらずに、さらに大西洋を横断して スペインや ローマを訪問させる計画へとつながりました。
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