昔の生活( その二 )、子供達


[ 1 : 農山村の低学力 ]

終戦のために長野県の集団疎開先から栃木県の田舎にある国民学校 ( 小学校のこと ) に転校しましたが、その村は 本校の他に分教場が 二つもある田舎 でした。言葉や服装が違う疎開っ子は、ここでも イジメの対象にされました。

今でこそ都会の子も村の子も同じような服装をしていますが、敗戦当時は 一目で見分けられるほどの違いが両者にありました。こざっぱりした身なりの疎開の子供と、薄汚れた粗末な服装で自家製の 「 わら草履 」 を履く村の子供の姿でした。それは長年の都市と農村との経済格差がもたらした、服装の違いでした。

それだけではありません、学力の格差も大きなものでした。6 年生の 9 月から村の学校に半年間在籍しましたが、同級生の中には国語の教科書がまともに読めない者や、簡単な分数の計算ができない者などがかなりいました。教科書も 7 割程度進んだ所で卒業することになりましたが、恐らく他の学年でも同じ程度の進捗率ではなかったかと思います。

その原因は農家の子供は義務教育の国民学校 ( 小学校 ) さえ出ていれば十分とする、親や教師の考え方にありました

一般には殆ど知られていないことですが、昭和 47 年 ( 1972 年 ) 5 月に日本に復帰した当時の沖縄では、 児童生徒の学力が本土と比べると 1 年の格差 がありました 。そのため沖縄に赴任した公務員や会社員の家庭では、子供が小学校を終えると子供だけでも本土に帰すのが普通でした。中学校を卒業するまで子供が沖縄にいては、学力不足から本土の高校に入学できなくなるからでした。

学力低下の原因は沖縄県民の歴史的欠点である教育軽視と、無気力からでした。元日本海軍の オランダ駐在武官を務め、戦後は琉球漁業社長となった渡名喜守定氏は

沖縄では高校の先生の学力が、東京の高校生ぐらいだ
と昭和 38 年に雑誌 「 水交 」の 3 月号で述べていましたが、昭和 25 年の時点で無資格教員は全教員の 3 割、約 970 人を数えました。更に沖縄出身学生に対する優遇制度である、国費、自費制度という特例措置があり、本土の学生よりも相当低い受験得点、偏差値でも本土の有名大学へ進学できる制度がありました。

この制度は昭和 28 年 ( 1953 年 ) から昭和 55 年 ( 1992 年 ) まで存続し、 毎年 国費 168 人、自費 98 人 、が国公立大学だけでなく、早稲田大学へも入学特別枠があり、いずれも 留学生待遇 でした。国費、自費の中から成績上位の順に毎年東大に 2〜3 人、京大に 2〜3 人という順で割りふられ、沖縄の高校卒業生約 5 千人がこの恩恵が浴して進学 ( うち医学関係 1,137人 ) しました。

しかし学力不足から授業についていけず、学生運動に走る者もいました。


[ 2 : 着物から洋服へ ]

村の学校に通う子供達は東京の学校では見られなかった着物姿の子供も大勢いましたが、冬になると疎開した子は オーバーを着ましたが、村の子供は、綿入れの 「 はんてん 」を防寒着に着て通学していました。

その当時着物を着て通学していたのは、この村の児童だけではありませんでした。東京の新宿から青梅 ( おうめ )街道を西へ 17 キロ行くと、現東京都 ・ 西東京市に田無 ( たなし )、( 西武新宿線 田無駅下車 )という、かつての農村があります。

そこの 田無小学校 に残る明治 45 年 ( 1912 年 ) から昭和 45 年 ( 1970 年 ) までの児童の写真を調査した記録がありますが、それに依れば、終戦の年の昭和 20 年 ( 1945 年 ) 当時、 着物を着ていた児童は全体の 16 パーセント でした。その調査から児童の服装が 100 パーセント洋服になったのは、昭和 28 年 ( 1953 年 ) のことでした。

東京の近郊でさえこの状態でしたから、田舎の子供達が着物を着て通学する割合が高かったのは当然でした。

教室での子守 敗戦当時 ( 昭和 20 年 = 1945 年 ) の へんぴな田舎の小学校 では、写真のような状態は珍しくありませんでした。昔の家庭は子供の数が多く、5〜6 人から多い家庭では 7〜8 人もいたので、上の子供が小さい妹や弟の面倒を見るのが当たり前でした。

貧しかった農村では小さい弟や妹を学校に連れて来ては、子守をしながら勉強するのを、誰も何とも思いませんでした。彼等/彼女等もそのようにして育てられたからです。私の クラスにも毎日赤ん坊を連れて登校する女の子がいました。

昼休みには クラスの皆で赤ん坊をあやしたり、面倒をみたりしましたが、農作業の合間に母親が学校に来ては授業中の教室から赤ん坊をそっと連れだして、授乳をしてから帰って行きました。

へんぴな学校の教室にとって、赤ん坊の存在は貧しいながらも、少しだけ微笑ましい光景でした。


[ 3 : 三才までは神様の子供 ]

東北地方に古くからある言い伝えに、 飢饉は海からやってくる 、というのがありました。何十年かに一度、親潮 ( 寒流 ) と黒潮 ( 暖流 ) のぶつかる日本有数の漁場である金華山沖で ニシン、サケ、マス、タラなどの寒流系の魚が獲れても、イワシ、サンマ、カツオ、マグロなどの暖流系の魚が、漁期が来てもまったく獲れなくなるのです。

それが飢饉の始まりを告げると言われていました。現代風にいえば、東北地方の太平洋沿岸を流れる親潮 ( 寒流 ) の勢力が異常に強くなった証拠です。

それが オホーツク高気圧 ( 寒気団 ) に影響を及ぼし、 やませ と呼ばれる冷たい北東気流を梅雨期から盛夏にかけて呼び込み、東北一帯の気温を引き下げるばかりでなく、7 月の稲の分株成長期と 8 月の開花期に連日冷たい雨を降らせ、冷害による凶作つまり飢饉をもたらすのです。

これ以外にも海流/海水温度の変化が気象に及ぼす影響として有名なものに、 エル ・ ニーニョ ( 神の子、つまり イエス、キリスト )現象があります。

これは南米 ペルー 沖から東部太平洋の海水温度が、夏季 ( 南半球の 12 月、クリスマスの季節 )に例年よりも 3 度から 5 度 も高くなり、それが グアム島、フィリピンなどがある西太平洋海域の表面水温に影響を及ぼして通常 28 度以上 の海水温度を更に上昇させ、その結果 アジア各地に長い梅雨、冷夏、暖冬などの異常気象をもたらすのです。

墓碑

私が生まれた昭和 8 年 ( 1933 年 )から昭和 9 年に掛けて、東北地方では冷害により農作物は秋の実りが殆どなく凶作になりましたが、それが農村の疲弊に更に拍車を掛け、ひいては前述の二、二六 事件を生む遠因にもなりました。写真の墓碑は家から徒歩で 30 分の所にある墓地で撮ったものですが、2 人の子供が 2 才と 3 才で亡くなっていました。最初は事故で亡くなったのかと思いましたが、それぞれ没年が異なるので多分病死だと思います。


[ 4 : 運がよければ赤子は育つ ]

その当時岩手県九戸 ( くのへ )郡山根村 ( 現、久慈市・山根町 )では、昭和 8 年の 1 年間に 75 名が出生しましたが、同じ年に死亡した乳児の数は 30 名 でした。翌年 ( 昭和 9 年 = 1934 年 ) には 1 月から10 月までの間に 60 名が出生しましたが、死亡した乳児は 31 名 でした。

同じ九戸郡の山形村 ( 現在も同じ )では昭和 8 年度の出生 225 名に対して、1 年以内に死亡した乳児の数は 103 名 で、翌年 ( 昭和 9 年 ) の 1 月から 10 月までの出生 187 名に対して、死亡した乳児はこれも 103 名 でした。

この二つの村では凶作という悪条件も 一因でしたが、 乳児の死亡率は 49 パーセント という驚くべき数字で、生まれた赤ちゃんのほぼ半数が満 1 才の誕生日を迎えられずに、あの世に旅立つという悲惨な状態でした。

岩手県の山根村や山形村に限らず当時のへんぴな山村、農村では、貧困に起因する生活環境の悪さ、栄養不良、衛生知識の欠如、医療制度や受診の機会に恵まれずにいた事から、乳幼児は 三才までは神様の子供 とみなされて、 運が良ければ赤子は育つし、病気で死ねば神様が迎えに来た として乳幼児の死を諦め、親自身も不憫だったが、 また赤子を作ればよい とそれを納得していました。

卑近な例では 107 才と 108 才まで生きた双子の姉妹、きんさん、ぎんさんがいましたが、きんさんは 11 人の子供を産みましたが、 育ったのは僅か 6 人でした


[ 5 : 天皇家の場合 ]

明治天皇には 5 人の側室と15 人の子供がいま したが、その内 10 人は幼い内に死亡 し成人したのは僅か 5 人で した。つまり 明治天皇家では実に 67 パーセントの子供が死亡 したので した。成人 した内で男子は大正天皇 ( 1879〜1926 年 ) ただ 1 人で したが、彼は体だけでなく 脳も弱 く政務に堪えられなかったので、当時皇太子で した昭和天皇が満 20 才になったのを機に摂政に任命 しま したが、大正天皇が 42 才になった大正 10 年 ( 1921年 ) のことで した。

その原因はいうまでもなく、鎌倉時代から続く 五摂家 ( 近衛、九条、二条、一条、鷹司など、関白に任ぜられる資格を持つ高い家柄の五家 ) と天皇家との間で繰り返された 血族結婚という悪習 の結果であり、 生物学的にみても生まれる子供は、 虚弱、不妊、矮小化 がその身体的特徴で した

戦後に正田美智子さん、津軽華子さん、精神疾患で 20 年も皇太子妃と して役立たずの 小和田雅子さんを皇室に迎入れたのも、遺伝学的に最も遠い距離にある新 しい遺伝子を、天皇家の血筋に注入するためで した。

[ 半作 ( はんさく ) ]

その当時は半作という言葉がありま した。子供の半分は死んで しまうので、沢山産んで置かねばならないという意味で したが、 7〜8人 も子供を産む女性は珍 しくありませんでした。

これは当時の日本だけの状態ではありませんで した。チベット仏教の最高指導者 ( 菩薩の化身、生き仏 ) である 14 世、ダライ ・ ラマ は、中国軍が チベットを侵略 したため、昭和 34 年 ( 1959 年 ) 以来今も インドへ亡命中ですが、その間に ノーベル平和賞を受賞 しま した。

彼の自伝によれば、母親は 16 人 の子供を産みま したが、育ったのは僅か 7 人 だけで した。しかも母親が ダライ ・ ラマを出産する際に彼を取り上げたのは、当時 18 才の長姉で した。


[ 6 : 愛児への挽歌( ばんか )]

万葉集には 山上憶良 ( やまのうえのおくら、660〜733 年頃 ) が詠んだ歌が 76 首ありますが、その中には幼い男児の 古日 ( ふるひ ) が病死 した際に詠んだ悲 しみの歌があります。
若ければ道行き知ら じ賄 ( まひ ) はせむ、黄泉 ( したへ ) の使 ( つかい )、負ひて通らせ、( 905,巻 5 )

我が子は年端 ( としは ) もいかない幼児なので、あの世への道を知りません。黄泉 ( よみ ) の国の使いの人よ、贈り物を しますからどうぞ子供を背負って、あの世への道を連れて通って下さい。

布施 ( ふせ ) 置きて、我れは祈 ( こ ) ひのむあざむかず、直 ( ただ ) に率 ( い ) 行きて、天道 ( あまじ ) 知ら しめ、( 906,巻5 )

お布施を差し上げて私はお祈り致します。あの子が道を間違えないように、どうぞ正 しい方向に連れて行き、天国への道を教えてやって下さい。

幼な子を失った彼の嘆き、悲 しみ、死んだ子を思う心は、1,300 年の時空を超えて今も感じることができます。
ちなみに挽歌の挽 ( ばん ) とは引くという意味です。挽歌とは昔中国で葬送の際に、柩を車に載せて引く者が歌った悲 しみの歌のことで、そこから人の死を悼む詩歌などを言うようになりま した。


[ 7 : 縄文時代の乳児死亡率と平均寿命 ]

三内丸山遺跡発掘現場

近年大規模集落の縄文遺跡と して有名になった青森県の 三内丸山 ( さんないまるやま ) 遺跡が発掘されま したが、そこではおびただしい数にのぼる赤ちゃんのお墓が住居地内で発見されました。早死に した幼児を大人のように集落の外の墓地に埋葬するのは忍びなかったので、住居近くに埋葬 したようでした。赤ちゃんは小さな壺に入れられて葬られていま した。

5 千5 百年前から 4 千年前 という時の流れの中で遺体の骨は全て朽ち果ててしまいましたが、どの壺にも女性の握り拳ほどの丸い石が入っていました。亡くなった赤ちゃんの霊を慰め、再びこの世に生まれて来ることを願って、母親たちが悲しみの中で入れたものと思われますが、縄文時代 ( 中期 ) の乳児死亡率はさぞ高かったであろうと想像します。( 縄文人旅のなぞ、参照 )

縄文時代の人々の寿命については日大の小林教授の研究に基づき菱沼氏が作成した生命表によると、男女とも 14.6 才 でした。縄文時代には約 1 万年の幅がありますが、その間に死亡率の変化は見られませんでした。それだけではなく弥生時代 ( 紀元前 3 世紀〜3 世紀 )、古墳時代 ( 4 世紀〜6 世紀 )になっても寿命には殆ど変化みられませんでした。

平均寿命が 14.6 才というのはその年齢に達すると当時の人々が死亡したと言う意味ではなく、早死にする幼児、子供が極めて多かった為に平均した結果、人々の寿命が極端に短くなったと言うことです。ちなみに明治 19 年 ( 1886 年 ) の生命表によれば、男性は 32.7 才 、女性は 33.2 才 でしたので、乳幼児の死亡率が依然として高かった証拠です。

昭和の時代になると少しは改善したものの、昭和 10 年〜11 年 ( 1935 年〜36 年 ) における日本人の平均寿命は、 男性 46.92 才、女性49.63 才 で、欧米諸国に比べて 5 才〜10 才の少ない差がありました。


[ 8 : 乳児死亡率の減少 ]

凶作、飢饉の年から 20 年以上経った昭和 30 年 ( 1955 年 ) 度の統計に依れば、山形村の乳児死亡率は 15 パーセント でしたが、当時の全国平均の値である 4 パーセント からすると、依然として 約 4 倍の高率 を保っていました。

もはや戦後ではない と国民経済白書に書かれた昭和 30 年から 47 年が経過しましたが、その間の目覚ましい経済発展により国民の生活水準が飛躍的に向上し、国民健康保険制度の導入、乳児の定期検診制度の採用、医療技術の進歩などにより、乳児の死亡率が劇的に減少しました。


[ 9 : 平成 12 年度 ]

平成 12 年における乳児の死亡統計によれば、全国平均では出生 千 人につき乳児の死亡数は 3.2 人 で、百人当たりの死亡率に換算すると実に 0.32 パーセント にまで減少しました。この数字は日本人の寿命の伸びと共に世界の トップクラス になり、今では 赤ん坊は死なないのが当たり前 の世の中になりました。

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[ 10 : 汲み取り便所と寄生虫 ]

こえたご

昭和 10 年 ( 1935 年 ) 当時の東京市 ( 当時 )の区部では下水道があったものの、屎尿 ( しにょう ) が浄化処理されていたのは僅か 3 パーセント に過ぎず、大部分は人力による汲み取りに頼っていました。

月に 1 〜 2 回、大八車に こえたご、( 肥担桶 )と大きな 「 ひしゃく 」、天秤棒を積んだ 汚穢屋 ( おわいや ) が各家を回り便所の汲み取りをして行きました。写真は遠足の途中で運悪く、「 こえたご 」 が置かれている臭い道を通らなければならなかった、小学生の一行です。

汚穢車

そのため東京市 ( 当時 ) 内でも汲み取り日になると、「 こえたご車 」 や屎尿の桶を運搬する牛車や馬車が道路を行きかい、糞尿の臭いを周囲にまき散らしていました。当時は一般家庭でも一歩玄関に入ると汲み取り式便所の臭いが漂う家もあり、便所に消臭用の大型樟脳 ( ? ) を置いていました。下水道に関しても東京以外の全国 125 市のうちの 41 市、 僅か 33 パーセント しか設備が無く、町村部に至っては 12,358 町村のうちの たった 6 町村 に過ぎませんでした。

バキューム・カー

バキューム ・ カーの ホースで屎尿を吸い取るようになったのは、昭和 30 年 ( 1955 年 ) 代になってからでした。敗戦後日本にやって来た占領軍の米兵達は 「 こえたご車 」のことを皮肉を込めて、 はちみつ車 ( Honey Cart )と呼んでいました。


[ 10−1、汚穢屋 ( おわいや ) ]

汚穢屋 ( おわいや ) や、 家庭の ゴミ箱からの ゴミ収集人 ( ごみや )には、日本語が話せない朝鮮半島出身者 が多く働いていました。彼等は現在いわれているような 強制連行とは無縁であり 、朝鮮半島から容易に渡航できた当時の日本に、戦前から移住や出稼ぎにやって来た、 朝鮮語でさえも 文盲で 何の技術もない、貧しい肉体労働者 たちでした。

彼等は日本に居住する金持ちの朝鮮( 半島 )人が建てた、 朝鮮部落と呼ばれていた長屋 に集団で住み、人の嫌がる仕事で資金を稼ぐと、家族を朝鮮から日本に呼び寄せて長屋を出て行きましたが、 それが多くの在日韓国 ・ 朝鮮人の先祖たちが歩んだ軌跡でした

汲み取りは 1 荷 ( か ) いくらの有料で予め汲み取り券を区役所の出張所で購入しておきそれを渡しましたが、東京の周辺部では付近の農家の人が肥料にするために無料で汲み取りに来ましたが、時にはその肥料で育てた野菜などをお礼に持参したそうです。


( 10−2、寄生虫のまん延 )

化学肥料を殆ど使わずに昔ながらの人糞を肥料に使う農業の立ち遅れから、寄生虫のまん延も著しく、検便の結果によると全国平均では、 56 パーセント が寄生虫保有者でした。大阪府茨木市史によれば、昭和11 年 ( 1936 年 )当時

大阪府三島郡見山村 ( 現茨木市 ) では村民 1,350 名中の、930 名 68.9 パーセント が回虫、鞭虫を保有し、112 名 8.3 パーセント が 十二指腸虫を保有していました。

全国の小学校では毎年 1 回、海人草 ( かいにんそう )という虫下しの効能 ( カイニン酸 )がある海藻 ( 紅藻類 イギス目 ) を、全校児童に飲ませて寄生虫の駆除をしていました。私達の学校では各 クラス毎に小使室に行き、大釜で煎じた薄い茶色がかったどろどろしたものを順番に飲みましたが、気持ちが悪い液体でした。数日後に便の中に回虫が出た人を先生が調査しました。これは戦後もしばらく続けられていましたが、人糞が農産物の肥料として使われなくなってから寄生虫の保有者も減ったので廃止されました。

私達が子供の頃には、アトピー性皮膚炎や食物 アレルギーになる子供などいませんでした。アレルギーといえば長野県の田舎に学童集団疎開をした際に、「 山ウルシ 」の木の見分けがつかずに触れてしまい、かぶれた者が数人いた程度でした。

昭和 40 年代になると アトピーなど アレルギーに過敏な症状を示す子供が増えましたが、その原因として日本人の体内 ( 消化器系統 ) から回虫などの寄生虫がいなくなったことを理由に挙げる医学研究者もいます。

調査研究によると戦前の日本のように、 寄生虫の保有率が高い開発途上国ほど、アトピーなどの アレルギー疾患が少ない のだそうです。その理由は幼児の頃から小腸に住む回虫などの寄生虫が出す糞便を吸収していると、人体に アレルギー反応を抑制する抗体ができるのだそうです。

逆にいえば人体を無菌状態 ( ? )に置くと、身体の抵抗力が弱まるのと同じ理屈です。 過去に日本人の半数以上が寄生虫を保有していた経験からも、回虫については比較の問題ですが、アトピー性皮膚炎ほどの悪い影響を健康には与えません。

従って副作用のある強い ステロイド剤を使わなければならない頑固な アトピー疾患の治療には、 体内で回虫を飼う治療法が効果がある との説もありました。

ちなみに寄生虫の研究者の中には、自分の体内で回虫を飼育している人もいるそうです。しかも名前まで付けて−−−。勇気のある アトピー患者は、一度お試しあれ。


[ 11 : 教育の水準、代用教員 ]

1945 年の敗戦当時、義務教育終了後、上級の学校 ( 旧制の中学校、女学校、=現在の高校 )に進学する子供の数は、私達の村では毎年 5 〜 6 人に過ぎませんでした。進学率としては多分 6 パーセント 程度だったと思います。

その当時の全国平均の値である 20 パーセント に比べると、かなり低い数字でしたが、参考までに社会が豊かになった現在の日本では、高校への進学率は 97 パーセント 、4 年制大学への進学率は 36 パーセント前後です。

子守する子供 国民学校 ( 小学校 )卒業後、更に高等科と呼ぶ 2 年間の半義務教育(?、現在の中学校教育 ) を受けるには、高等科 ( 国民学校高等科 ) が設置されていた隣村の学校まで通う必要があったので、ほとんどの者は高等科には行きませんでした。

6 年間の義務教育(?)終了後の子供達は家で農業の手伝いをしたり、幼い弟妹の子守をしたり、口減 ( くちべ )らしと称して生活費節減のために、町の商店や職人の家に住み込み、三度の食事を食べさせてもらうだけの、無給に近い見習い小僧や子守として働きました。

源公と武ちゃんは、共に小学校を卒業すると同時に、年期奉公にやられた。源公は大工の小僧に、武ちゃんは下駄屋の小僧になって( 双竹亭随筆、昭和18 年、1943 年 )

私の村では女の子は口べらしのために、小学校を出ると子守か女工になって村を出たし、東京へ売られても行った( 芹沢治良、私の履歴書より )

私と同じ小学校を卒業した人たちで、上の学校に進んだのは同じ組の40 人近くいた中で、10 人もなかった。卒業生の 3 分の 2 以上が丁稚 ( でっち ) 奉公へ行くなり、家業を手伝うなり、すぐに家業に就く風習が一般的だった。( 大阪自叙伝、藤沢桓夫 )

その当時、村には文字の読み書きが殆ど出来ない老人が沢山いましたが、貧困のために学校教育を受けられなかったのが原因でした。それに明治 33 年( 1900 年 )生まれの母親から生前聞いた話によれば、明治 39 年 ( 1906 年 ) までは義務教育は 4 年制だったそうです。

ある時、村の簡易郵便局に手紙を出しに行った際に、当時高校生の私に書留の封筒を示しながら、葉書の代筆を頼んだ 60 才台の女性がいました。

いつもは局長さまに頼むんだけんど( けれども )、今日は留守だっちゅうから、おめい( お前 ) 済まねーが手紙さ ( を )書いて呉れっけ?。

埼玉県にいる息子からの送金が届いた旨の知らせと、お礼の言葉でした。

童謡の名曲に赤 トンボがありますが、 夕焼け小焼けの赤 トンボ/負われて見たのはいつの日か、の歌詞の 3 番には、

15 で 「 ねえや 」は嫁に行き/お里の便りも絶え果てた

とあります。これはその当時義務教育終了直後の 10 才や 12 才から子守に出され、 他人の メシを食べる 少女たちの存在と、労働力獲得のための農村における早婚の習慣やその悲哀を歌ったものでした。

当時の農村における女性、特に嫁の地位は低く、地方によっては 嫁は角 ( つの )の無い牛 とまで言われ家畜なみの労働、つまり姑の指示の下で朝は家族の誰よりも早く起きて働き、夜も誰よりも遅くまでひたすら働くことを要求されました。

そのため戦後の農家の母親達は自分達が蒙った肉体的、精神的苦労を娘にはさせまいと農家以外の所に嫁がせようと努力し、娘達も農家の重労働、嫁に与えられる奴隷的処遇を嫌い、その結果が現代に至る農村の嫁不足をもたらしました。

注:1)
日本の農村では嫁に入るということは、姑の奴隷になることである( イサベラ ・ バード著、日本奥地紀行 )。しかしこの悪しき社会風習は農村だけに限らず、かつては都市部においても存在していました。

注:2)
ねえや ( 姐や )とは、子守や女中などを親しんで呼ぶ言葉。

昭和 16 年 ( 1941 年 ) 当時の国民学校 ( 小学校 ) の先生は高齢のため兵役、徴用を免れた男性教師か、戦時中に男性教師の不足を補うため女学校 ( 小学校卒業後、4 年制もしくは 5 年制の課程 )を卒業後、講習を受けて任用された無資格の代用教員と呼ばれた女性教師が主戦力で、若い人では 16 才や 17 才 ( 現在の高校 1 年、又は 2 年終了 ) の教師もいました。

東京の国民学校では私も 2 年生の新学期 ( 昭和 16 年= 1941 年 )から、当時 17 才の代用教員の先生に教わりましたが、昼休みには先生が一緒になって、遊んで頂いた記憶があります。先生は今も、ご存命です。


[ 12 : 敗戦直後の教育現場 ]

( 12−1、教科書を墨で塗る )

敗戦直後の昭和 20 年 ( 1945 年 ) 9 月20 日、文部省は 終戦に伴う教科用図書、取扱方に関する件 という次官通達を出しました。そこでは各学校の教科書は、 追って指示あるまで 現行教科書を継続使用して差し支えないが、戦争終結に関する詔書の御精神に鑑み、適当ならざる教材は 削除と指示しました

削除の対象となったのは

  1. 国防軍備の強調

  2. 戦意の昂揚

  3. 国際和親の妨害

  4. 終戦の現実とかけ離れたもの

の以上の内容についてでした。

昭和 20 年 ( 1945 年 )10 月 22 日に S C A P ( Supreme Commander for the Allied Power、連合国軍最高司令官、マッカーサー ) から 日本の教育制度に対する管理政策 についての指令が出されましたが、その C 項 (1)によると、

一時的ニ其ノ使用ヲ許サレテイル現行ノ教科書、教師用指導書ハ出来ル限リ速ヤカニ検討セラルベキデアリ、 軍国主義ナイシ、極端ナル国家主義的箇所 ハ、削除セラルベキコト。

スミ塗りの教科書 とありましたが、これに基づき全国の各学校では 教科書の該当個所を墨で塗り、削除する作業が始まりました 。右は教科書に記載されていた観艦式の説明です。

その結果勉強する際に非常に困ることが起きました。なにしろ国語の教科書を読んでも、戦争に関係のある文章や単語が墨で塗られたために意味が通じなかったり、算数の応用問題でも出題の意味が不明になったりしました。

音楽の教科書については戦時中は、 ド レ ミ ファ ソ ラ シ ド の音階表示は 敵性言語である として、 ハ ニ ホ ヘ ト イ ロ ハ の音階表示の教育が行われてきましたが、それを元に戻すことになりました。また軍国主義に関係する歌詞は、すべて削除されたので歌える歌が非常に少なくなりました。

昭和 20 年 12 月 15 日に G H Q ( 連合国軍総司令部 ) は国家から神道を分離する、つまり政教分離を定めた 「 神道指令 」 を出しましたが、さらに 12 月 31 日には 修身 ( 道徳のこと )、歴史、地理の 授業停止を命令 しました

文部省は翌年 ( 昭和 21 年 ) 1 月 25 日に改めて教科書局長通達 国民学校後期使用図書中の 削除修正個所 の件 を出して、 神道や戦記などに関する記述 も削除対象に加えました。

折角多くの時間を掛けて墨を塗った 修身、歴史、地理の 教科書が使用禁止 となり、国語、算数、理科、音楽の教科書については先生から言われるままに、 新たに削除対象となった個所 を墨で塗りつぶす作業を毎日何時間も続けました。

[ 13 : 教職追放、教員組合左傾化の背景 ]

占領軍による教科書や教材の削除状況の検査、教育内容に関する検査、取り締まりがおこなわれると共に、その指令に基づき政府は昭和 21 年 ( 1946 年 )5 月 7 日に、 教職員の除去、就職禁止及び復職等の件 という勅令 263 号を公布して、各都道府県に教職員適格審査委員会を設置しました。

それにより全国の 60 万人 を超える教職員の全員について、本人提出の調査表に基づいて個別に適格性審査を実施しましたが、審査担当者には 結成されたばかりの教職員組合の役員も参加し、教師が教師の過去の行為、言動を裁く という事態になりました。

過去に軍国主義や極端な国家主義的教育に積極的に荷担し、指導的立場にあったとされた教職員や、軍国主義的教育を強制したとの告発や極端な愛国主義者として誹謗中傷の投書のあった者など、教職不適格の烙印を押された者はすぐに 追放解雇 されました。

このことが戦後の マルクス ・ レ−ニン 主義の流行と併せて、左翼主義的教職員の増加と勢力の拡大を助長し、教職員組合の左傾化を強める根本の原因となりました。

追放された者の リストには戦時中の中学、女学校 ( 現在の高校 )、国民学校 ( 小学校 ) の校長や、平の教員では少年兵への応募の強制、木刀を 2 百回生徒に振らせた、生徒に対する ビンタ などの日常的暴行、米国旗侮辱、戦前に米国から日本に人形使節として送られた青い目の人形を焼いた、などの行為を摘発された者もいました。

[ 14 : 公職追放 ]

教職追放とは別に占領軍総司令部から昭和 21 年 ( 1946 年 ) 1 月 4 日に出された 指令、 公務従事に適せざる者の公職よりの除去に関する件 というのがあり、一般には 公職追放令 といわれました。

それに規定された職業軍人、右翼、軍国主義者など七つの項目に該当した合計 20 万人 も公職から追放されました。教職追放の場合は個別の審査であったのに対して、公職追放は項目別でした。例えば過去に陸海軍の将校であった者は、すべて職業軍人の項目に該当し、下士官や兵士については 10 年以上軍歴のあった者は、例外なく公職から追放されました。

[ 15 : マスコミ追放 ]

昭和22 年 ( 1947 年 ) 1 月 6 日付の米軍機関紙である 「 星条旗 」 の太平洋版 ( The Pacific Stars & Stripes ) に依れば、日本政府は新たな追放令と同追放令の対象となる報道関係者について、具体的内容を発表しました。それによると

発行部数 2 万部 を超える新聞社と出版社の幹部は公職とみなされることとなり、これに該当する職にあって、昭和 12 年 ( 1937 年 ) から昭和 16 年 ( 1941 年 )12 月 7 日までの間、日本の侵略的軍事行動を支持し、ないし追従し、または日本政府の戦争行為を支持したものは、追放の対象とされ、報道、映画、演劇、放送に関係する企業に職を得ることを禁じられました。

被追放者はその影響力の行使を禁じられるほか、原職に復帰することも許されず、本追放令とその細目に違反したものは罰せられることになりました。


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