森鴎外の仮面

[ 1 : 母親のこと ]

清林寺 食物が市中に溢れ、食生活が豊かになった現在では名前を聞かなくなりま したが、昔は 脚気 ( カッケ ) という栄養失調による病気がありま した。私の母方の祖母は新潟県中蒲原 ( かんばら )郡の村 ( 現、五泉市 ・ 馬場町 ) にある真宗大谷派の 清林寺に嫁ぎま したが、母を出産後、僅か 40 日で脚気衝心 ( かっけしょう しん、脚気が原因の心不全 ) で死亡 しましたが、明治 33 年 ( 1900 年 ) のことで した。

当時は育児用の粉 ミルクなどは無かった時代なので、生まれたばかりの母は母乳を求めて直ぐに農家へ里子 ( さとご ) に出されま した。その家の女性は乳飲み子を 病気で亡く した ばかりだったので、母はあたかも我が子が帰って来たかのようにその女性 ( 乳母 ) に可愛いがられて育てられま した。

私も小学生の時に 里帰り した母に連れられて、東京からその乳母に会いに行きま したが、方言のため言葉が分からなかったものの、涙を流 して喜んでくれました。

五泉駅

小学校に上がる為に母は寺に引き取られま したが、継母のいる寺の生活になじめなかったのだそうです。その当時 五泉の町では月に 3 回朝市が開かれていま したが、母は辛い思いをするといつも農産物を売りに朝市に来る乳母に会いに行きま した。

そ して乳母に家に連れて帰ってもらおうと何度も頼んだのだそうです。私が子供の頃に折りにふれその話を聞かされた母も、亡くなってから 間もなく 30 年になります。


[ 2 : 脚気 ( カッケ )の原因 ]

今では脚気 ( カッケ ) の原因が ビタミン B−1 の不足 によって発病することが解明されていますが、その当時は病気の原因が分からず、従って治療法も不明で した。

江戸時代には麦飯 ( むぎめ し ) や粟飯 ( あわめ し ) を食べていた地方の人が、江戸に出てくると白米のご飯を食べたために病気になり、 江戸やまい とも呼ばれま した。

庶民に限らず記録によれば 3 代 将軍 家光 、13 代 将軍 家定 ( いえさだ )、14 代 将軍 家茂 ( いえもち )も脚気で死亡 しま した。

「 脚気 ( カッケ ) 」は江戸時代から明治時代まで日本人がよく罹る原因不明の病気であり、一度罹ると昔の 結核 や現代の エイズ のような 「 死病 ? 」 と思われていま した。それは足のむくみ、手足の しびれ、動悸が増 し、食欲不振、歩行障害、視力の減退をもたら し、重症になると私の母方の祖母のように 心筋障害を起こ して死亡 しま した。


[ 3 : 二つの原因説 ]

軍服姿の森鴎外 明治維新以後富国強兵政策を採った日本政府は、日本兵の体格が欧米人に比べて貧弱なのは食事の質に原因があると して、麦や粟 ( あわ ) を混ぜない白米食を兵士に 1 日当たり 5 合 ( 750 グラム ) を支給 しま したが、その結果軍隊では脚気患者が広がりま した。

ドイツ で最新医学を学んだ陸軍の、軍医 副総監 森 林太郎 ( 作家 森 鴎外の本名 ) は、脚気 ( カッケ ) の原因について 細菌説 を主張 しま した。

ところが英国に留学 して最新の臨床内科を学んだ海軍の同じく軍医 副総監の 高木兼寛 ( かねひろ ) は、「 体に必要なある物質 」 の不足によるものとする 食物原因説 を採りました。右の写真は日露戦争の際に、前線視察中の珍 しい軍服姿の森 林太郎 ( 鴎外 ) です。

明治 16 年 ( 1883 年 ) に南太平洋を航海中の軍艦 「 龍驤、りゅうじょう 」 において、 乗組員 378 名中 168 名が脚気 ( カッケ ) になり 、そのうち 25 名の死者が出た ため、高木は白米の兵食に原因があると して大規模な人体実験を試みま した。

高木海軍副軍医総監

練習艦 「 筑波 」 に 「 龍驤 」 と同数の兵員を乗せ、同じ航路を同 じ日数を掛けて航海させま したが、但 し食事は白米食ではなく、麦飯や時には 「 パン食 」 を支給 しま した。 280 日 に及ぶ航海 の後に ハワイに入港 した練習艦隊からは、

病者 1 人もなし、安心あれ

の電報が高木の元に届きま した。以後海軍の兵食は麦飯と パン食になり、脚気で死亡する兵員も無くなり、日清、日露の海戦の際も十分に戦力を発揮 しま した。しかし陸軍では、そうではありませんで した。

森 鴎外は白米食 至上論を唱え続け 海軍における洋食、麦飯支給を批判 し、東大の細菌学教授の緒方正規が 「 脚気病菌発見 」 と誤った発表を したこともあって、その後も 細菌説 を主張 し続けま した。


[ 4 : 陸軍の惨状 ]

海軍ではいち早く脚気を予防するため パン食を導入 して脚気の克服に成功 しま したが、一方の陸軍ではその後 軍医総監に昇進 した 森 林太郎の 森 鴎外 が脚気の原因について依然と して 細菌説を主張 し続けま した。

現地将兵からの麦飯支給の要求を拒否 し続け、白米食を与え続けた結果 カッケ 患者が激増し、日露戦争を観戦した外国武官たちは、突撃する際に脚気で足をよろよろさせながら進む日本軍兵士を見て、恐怖心を和らげるために 「 酒に酔っている 」 と記録 したほどでした。

  1. 明治 27 年 ( 189 4年 ) に起きた日清戦争では、陸軍の戦死者 293 名 に対 して脚気による戦病死 3,944 名 と戦死者の 13 倍 にもなりま した。

  2. 更に明治 37 年 ( 1904 年 ) の日露戦争においては、戦死者 47,000 名 に対 して、 脚気による戦病死 27,800 名 、脚気患者は驚くことに 21 万1,600 名 という惨憺 ( さんたん、いたま しく見るに忍びない ) たる状況になりま した。

    陸軍将兵の間にも海軍では 「 麦飯が脚気の予防、治療に効くので麦飯を支給 している 」 ことが伝わり、麦飯が食いたいと言いながら脚気で死ぬ者が続出 しま した。


[ 5 : 軽蔑すべき文豪の正体 ]

森 鴎外が兵士の生命よりも、自己の 医学上の体面 ( メンツ ) を守ることを優先させたために、 3 万人近くもの貴重な生命が失われま したが、明らかに森が犯 した 未必 ( みひつ ) の故意による殺人 で した。これは

一芸 一能に秀でた人間が、人格的に必ず しも 立派だとは 限らない

ことの実例で した。彼ほどの 「 ひどさ 」 は無いものの、こういう例は世間には少なからずあるものです。

森・鴎外

明治の文豪といわれた彼の仮面を剥ぎ取ると、その下には人間の生命を守るべき医師と しての判断を誤り、 しかも権威主義から自己の誤ちを認めず医師の倫理さえも喪失 した、唾棄 ( だき ) すべき 冷酷で 傲 慢 な鴎外の素顔や 醜 い 人 間 性 が如実に現れま した。

森 鴎外は海軍の実験航海の結果、およびその後の麦飯、パン食の支給から海軍では カッケ を克服 した 「 明確な事実 」 を示されても、死ぬまで 細 菌 説 の過 ち を認めようと しませんで した。スポーツ界の格言に

試合に勝つことは難しい、だが 「 潔い敗者 、Good Loser 」 になることはもっと難 しい。

というのがありますが、森 鴎外が取った行動を見ると正にそれに該当 しました。 しかも スポーツの勝敗ではなく、若い前途ある 何万 名もの兵士達の生命を、自分の判断の誤りから死に至ら しめた事に関 しての 反省、謝罪は全くありませんで した

大量殺人犯人 とも言うべき冷 酷、非道な人間が、明治の文豪の名声を博 していたことに疑問を感 じ、以後 彼の作品を読むのを止めま した。

ちなみに陸軍が兵士の脚気を防ぐ為に パン食や麦飯を導入 したのは、彼が軍医総監を退職 した直後からで したが、「 ビタミンB−1 」 が発見されたのは明治43 年( 1910 年 )で、 鈴木梅太郎 が世界で初めて 「 米 ヌカ 」 から抽出に成功 し、オリザニン と名付けま した。


[ 6 : 考古学者、「 縄文の神様 」 の場合 ]

旧石器

1946 年( 昭和 21 年 ) 頃のこと 小学校卒の学歴 しかなく独学で考古学を学び、敗戦による復員後に納豆の行商を しながら考古学の調査を していた相沢忠洋 ( あいざわ ただひろ、1926 〜 1989 年 ) 青年は、群馬県新田郡笠懸村 ( 現 ・ みどり 市 ) 岩宿 ( いわじゅく ) の切り通 しの崖で、旧 石器の槍先型 尖頭器 ( 左 写真 ) を発見 しま した。

それにより 縄文土器時代 以前の日本列島に、人類は居住 していなかったとする 考古学会の定説を覆 し 、日本にも 旧 石器時代 ( 後期 ) が存在したことが証明されま した。ちなみに 1946 年に旧制中学に入った私は、新制高校でも 日本に 「 旧石器時代は存在 しない 」 と習いま した。

今ではこの発見は 戦後の考古学史上 最大の発見 とされていますが、それ以降  日本各地で 1 万箇所もの 旧 石器時代の遺跡 が発見され、 「 相沢忠洋 」 の名前も考古学の分野で有名になりま した。 しかし発見当時は、そうではありませんで した。

旧 石器発見の手柄は当時 明治大学助教授の杉原荘介に横取りされ、学会での発表に相沢の名前はまったく触れられませんで した。さらに発表に対する考古学会の反応は冷ややかで、誰も信 じませんで した。

当時 東京大学理学部人類学科を卒業 し 東北大学医学部助手となり、東京大学理学部講師を経て成城大学教授の経歴を持つ 「 縄 文 の 神 様 」 と言われた 山内清男 ( やまのうち すがお、1902〜1970 年 ) という 大先生がいて、岩宿 ( いわじゅく ) 遺跡から出た石器について、旧 石器ではな く 縄 文 時 代 の 石 器 であると反対 し続けました。

ちなみに後期 旧 石器時代とは、 「 約 3 万年前 〜 約 1 万年前 」 を い いますが、岩宿の出土石器は科学的調査の結果 2 万 5 千年前 〜 3 万年前 と年代測定されています。

大先生は 1970 年 ( 昭和 45年 ) に死ぬまで、 日本に 旧 石器時代は存在 しない とする 自説の誤り を絶対に認めませんで したが、 森 鴎外と同様に 自己の 権 威 主 義 に 溺 れ 、学問の世界における 「 潔 い 敗 者 、Good Loser 」 にはなれませんで した。


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