古代史と天皇
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[ 1 : 歴史は書きかえられる ]「 歴史は書き換えられるもの 」 という言葉がありますが、国 ・ 政治組織 ・ 宗教などの指導者や機関が、それぞれの利益 ・ 支配の正統性 ( または正当性 ) を主張するために歴史を書き換えることは、洋の東西を問わず昔からよく行われて来たことでした。現代においても中国と韓国が尖閣諸島 ・ 竹島に関する歴史を 「 ねつ造し 」 、領有権を主張する事実を見れば容易に理解できます。昭和 20 年 ( 1945 年 ) 当時、小学校 6 年生だった私は、8 月 15 日の太平洋戦争の敗戦を境にして、それまでの天皇制国家主義に基づく歴史が 全て否定され 書き換えられる事態を体験しましたが、子供心に世の中に対する不信感を持ちました。 それまで鬼畜 ( きちく ) 米英撃滅 ( げきめつ ) を唱え国民を戦争遂行に駆り立てていた マスコミは、敗戦後から論調をがらりと変え、 アジアを長年植民地として支配してきた連合国を正義の味方(?)とし、その アジア諸国を植民地から解放した日本は、世界の平和を乱す悪の侵略国になりました。 ![]() ( 1-1、名誉の戦死者から、犬死にした人へ ) お国のために 「 名誉の戦死 」 をした人々は 「 護国の英霊 」 ( えいれい、戦死者の魂を敬っていういう言葉 ) として靖国神社に祀られてきましたが、敗戦を境にして侵略戦争の手先とされ、犬死に ( いぬじに、無駄な死に方 ) をした哀れな人間へと変わり、戦没者の遺族に対する恩給 ( 遺族年金 ) も廃止されました。 ![]() 敗戦後はそれまで教科書で習って来た 「 忠君愛国 」 や 「 修身の時間 」 に先生から教えられた 「 君 ( きみ、天皇 ) に 忠 ( ちゅう、忠義 ) ・ 親に 孝 ( こう、孝行 ) 」 などの徳目 ( とくもく、道徳の基本とされた 仁 ・ 義 ・ 忠 ・ 孝 ) はすべて 間違いだった ということになりました。 私が通った栃木県の村にある小学校の校庭には、薪を背負って本を読む 「 勤勉節約の手本 」 であった 二宮金次郎 ( にのみや きんじろう、注 参照 ) の石像がありましたが、農民の膏血 ( こうけつ、人が苦労して得たもの ) を絞りとって藩の借金返済に充てた、支配階級の走狗 ( そうく、他人の手先 ) とされ、敗戦後に撤去されました。
注 : 二宮金次郎当時の小学生は 二宮金次郎の歌 を、学校で唱歌 ( 音楽 ) の時間に習いました。 ( 1-2、皇国史観から、敗戦後の マルクス史観へ ) 戦時中の生活について、詳しくは ここにあります が、明治維新から太平洋戦争に敗れるまでの日本では神道を国の宗教 ( 国教 ) と定め、いわゆる天皇制国家主義に基づく皇国史観 ( こうこく しかん、日本の歴史が万世 一系の天皇を中心として展開されてきたと考える歴史観 ) 一辺倒で、明治憲法 ( 大日本帝国憲法 ) 第 3 条には 「 天皇は神聖にして侵すべからず 」 とあり、 天皇が主権者であり 国家を統治しました。 その天皇は同じく第 1 条によれば 大日本帝国は万世一系 ( ばんせい いっけい、永遠に 一つの皇統が続く ) の天皇之 ( これ ) を統治す とあり、天皇の統治は永久不変であるとされました。 建国神話の主人公である神武天皇の即位は日本書紀の紀年に基づき西暦前 660 年とされ、日本書紀 ・ 古事記の 神話や伝承 が国の方針によって 史実となり 、学校教育の現場ではその方針に基づき教育がおこなわれました。 今考えれば 西暦前 660 年 は考古学上 縄文時代晩期 に当たり、人々は 「 石器 」 を使用して狩猟採集 ( しゅりょう さいしゅう ) の生活をしていました。![]() 注 : 神武天皇 ( じんむ てんのう ) 古事記 ・ 日本書紀に記された神話 ・ 伝承によれば、九州の日向 ( ひむか ) から東進して大和地方を平定し、紀元前 660 年 ( 皇紀元年 ) に奈良盆地の南部にある橿原 ( かしはら ) の宮 ( 橿原神宮 ) で天皇に即位したとされる人物である。 即位の日 2 月 11 日を前述の紀元節 ( 現在は建国記念日 ) の式日と定め、小学校では登校して 紀元節の歌 を歌い、紅白の まんじゅう か落雁を貰って帰宅した。 しかし太平洋戦争が勃発すると、紅白まんじゅうなどの配給は廃止された。近年作家の 百田尚樹 ( ひゃくた なおき ) の書いた小説 「 永遠の ゼロ 」 が有名になり映画化されましたが、「 ゼロ 戦 」 とは海軍の零 ( レイ ) 式艦上戦闘機のことであり、当時の年号は全て 皇紀 が使用されていました。その皇紀 2600 年 ( 昭和 15 年 = 西暦 1940 年 ) に制式化されたので、ゼロ 戦 / 零戦 ( レイ戦 ) と呼ばれました。
このように敗戦までは天皇制国家主義に基づく皇国史観や軍国主義が隆盛を極めましたが、戦後になるとそれまでの軍国主義 ・ 右翼主義を打破するために占領軍が一時的に 左翼主義を支援した こともあり 、以後は 「 マルクス主義による唯物史観 」 ( ゆいぶつしかん ) が 日本の教育界 ・ 歴史学会 ・ マスコミ業界を支配しました 。 ![]() [ 1-3、戦後左翼主義の終焉 ( しゅうえん ) ] しかし 1991 年に マルクス主義総本山であった 旧 ソ連 ( 現 ・ ロシア ) の崩壊が起き、 1989 年に中国で天安門事件が起き、2002 年に北朝鮮の 「 金正日 」 が日本人の拉致 (4人生存、8人死亡など )を公式に認めると、共産主義 ・ 社会主義社会の 矛盾や国家犯罪が暴露 された結果、日本における左翼主義は支持者からの支持を失い 戦後左翼主義は終焉 ( しゅうえん、命の終わり ) の道をたどりました。 ちなみに平成 2 年 ( 1990 年 ) の衆院選で 136 名 もいた旧社会党 ( 現 ・ 社民党 ) の国会議員の数は、平成 25 年 ( 2013 年 ) の参院選の結果、衆 ・ 参両院議員合わせても僅か 5 名 に激減しました。朝鮮労働党と友党関係にあり、横田めぐみさんの拉致 を長年否定し続けた報いでした。
[ 2 : 古代日本について ]古代日本の様子を知るためには考古学上の資料 ( たとえば発掘により出土した 土器 ・ 人骨 ・ やじり ・ 鏡 ・ 古墳など ) を調べることが必要ですが、それだけでは当時の政治情勢や社会の状態などを知ることができません。そのためにはこの時代における文字資料 ( 史料 ・ 記録文書 ) などが必要ですが、 弥生時代の日本 には中国伝来の漢字の読み書きができる者が極めて少なく 、従って中国の歴史書や八世紀初頭に日本で完成した古事記 ・ 日本書紀などを手掛かりにする以外に方法がありませんでした。 ちなみに中国には 史記 ( 後述 ) を初め 、秦 ( しん ) ・ 漢王朝 ( 前漢 ・ 後漢 ) などの各王朝が作成した官撰の史書が存在したので、それにより弥生時代中期から 五世紀頃までの日本の状態を知ることができます。![]()
夫( そ )れ楽浪 ( らくろう ) 海中 倭人 あり、 分かれて百余国となす 歳時 ( さいじ ) を以て来たり献じ見(まみ)ゆ楽浪 ( らくろう ) とは漢の武帝が紀元前 108 年に初めて朝鮮半島を漢の領土とし、四つの郡に分けて支配しましたが、現在の平壌 ( ピョンヤン ) 付近にあった 一つの郡のことでした。そこへ日本人の先祖が海を渡って定期的に朝貢に来ましたが、当時の日本は 部族制の国が数多く存在 した状態でした。 日本列島の住人である 「 倭人 」 が中国の正史に登場 したのはこれが最初でしたが、 「 漢書 」 のできた時期などからみて、およそ 紀元 1 世紀頃 の日本の状態を記したものと思われます。 ちなみに魏 ( ぎ ) ・ 呉 ( ご ) ・ 蜀 ( しょく ) 三国の歴史を記した三国志 ・ 魏 書 巻 30 ・ 烏丸鮮卑東夷伝 ( うがん せんぴ とういでん ) ・ 倭人条 ) 、通称 魏志倭人伝 ( ぎし わじんでん ) により、 邪馬台国 ( やまたいこく ) や 卑弥呼 ( ひみこ ) など 三世紀の日本の政情 ・ 風俗などを知ることができます。 烏丸( うがん ) ・ 鮮卑 ( せんぴ ) とは、現在の中国東北部や内 モンゴルに住んでいた遊牧民の 東胡 ( とうこ ) から分かれた部族が建てた国です。魏志倭人伝が記す当時の日本とは、
倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國 ( その意味 )と記されていました。各地で部族制社会の首長から発展した 「 王 」 が建てた国は存在しても 、それらを広範囲に束ねた政治的 ・ 軍事的権力の トップの地位である 「 大王 ( おおきみ ) 」 は未だ存在していませんでした。 五世紀、 中国における南北朝時代の南朝 宋 ( そう ) の時代 432 年に、范曄 ( はんよう ) が書いた 後漢書 列伝 巻 85( 東夷列伝 ) には
建武中元二年 ( 西暦 57 年 ) 倭奴国 ( わのなのくに ) 貢 ( みつぎもの ) を奉じて朝貢す 使人 ( しじん ) 自ら大夫 ( たいふ ) と称す倭国 ( わこく ) の極南界なり。光武 ( こうぶ 帝 ) 賜うに印綬 ( いんじゅ、印とそれを下げる組み紐 ) を以てすとありました。 倭奴国 ( わのなのくに ) の位置については日本書紀にある儺県 ( なのあがた )、那津 ( なのつ ) と記された地であるところの、現在の北部九州 ・ 福岡市 ・ 博多 の辺りとする説が有力です。その際に賜った 「 金印 」 については後述します。 [ 3 : 倭人と、カンガルー ]前述した 魏志倭人伝 や宋書 卷 97 夷蛮伝 ( いばんでん ) ・ 倭國条 には日本列島人 ( 原住民 ) のことを 倭人 ( わじん ) と書き、倭人が住む国を倭国 ( わこく / わのくに ) と記していましたが、なぜ日本が 倭 ( わ ) と呼ばれるのかについては、下記の説があります。
広漢和辞典によれば、「 倭 」 とは、
それによれば東の異民族を東夷 ( とうい、東方の野蛮人、倭人も含まれる ) ・ 西方の異民族を西戎 ( せいじゅう、西方のえびす ) ・ 南の異民族を南蛮 ( なんばん、南方の野蛮人 ) ・ 北のそれを 北狄 ( ほくてき、 ) と呼び、秦 ・ 漢の時代に モンゴル高原で活躍した遊牧騎馬民族のことを 匈奴 ( きょうど ) という悪い意味の字を当てて 蔑称 ( べっしょう ) としました。
[ 4 : 史記について ]![]() 注 : 司馬 遷 ( しば せん ) 歴史家の司馬 遷 ( 紀元前 145 年 ? ~ ? ) は、父の司馬 談 ( しば だん ) による歴史編纂の志 ( こころざし ) を受け継いだが、少数の兵力をもって匈奴 ( きょうど ) の大軍とよく戦い、遂に捕虜となった漢の武将 李陵 ( りりょう ) を弁護したために武帝の怒りに触れ、死刑に次ぐ重罪であった宮刑 ( 珍宝を切除 ・ 去勢する刑罰 ) に処せられた。 しかし彼は男性として耐えがたい屈辱に耐えながら修史 ( しゅうし、歴史書の編集 ) の志を貫 ( つらぬ ) き、本紀 ( ほんぎ ) 12 巻 ・ 年表 10 巻 ・ 部門別の文化史である書 8 巻 ・ 列国史である世家 ( せいか ) 30 巻 ・ 個人の伝記集である列伝 ( れつでん ) 70 巻からなる歴史書 「 史記 」 を完成させた。彼は中国最初の歴史学者であり、中国史の父と称された。 ( 4-1、皇帝の称号、史記によれば ) ![]() 泰 ( たい ) を去りて皇を著 ( つ ) け、上古の帝位の号をとり、号して 皇帝 と白 ( い ) はんつまり泰皇 ( たいこう ) の泰を取り去って 皇 とし、帝号の 帝 と組み合わせて皇帝にしようと秦王の政 ( 始皇帝 ) が言ったと記されていました。その称号を定める文脈で 三皇 ( さんこう ) についても触れていました。 秦始皇帝 ( しん しこうてい ) は自分がこの 三皇五帝 ( さんこう ごてい、 三人の 神、五人の 帝王 )より尊い存在であるとする考えから皇帝と言う言葉を造語し、自分に対する称号として使わせましたが、以降中国の支配者は皇帝を名乗ることになりました。 一般に 天皇 ( てんこう ) とは道教 ( どうきょう、注 参照 ) 系の 神名 であり、 北極星を神格化した神 をいう言葉でした。 注 : 道教とは 中国固有の宗教で、蓬莱 ( ほうらい ) など超自然的な楽園と、そこに住む神通力を持った神や仙人の存在を信じ、不老不死を目指す 「 神仙思想 」 と原始的民間宗教が結合した古代からの宗教である。 後に春秋戦国時代 ( 紀元前 722 ~ 前 221 年 ) の楚 ( そ ) の思想家であった老子 ( ろうし ) や 同じ時代の宋 ( そう ) の思想家の荘子 ( そうし ) の思想と、更に仏教を取り入れて形成されたところの、言わば 「 ごった煮 」 宗教であり、中国の民間習俗 ( しゅうぞく、習慣となった生活様式 ) に影響力を持った宗教のひとつになった。 [ 5 : 王と、大王 ( おおきみ ) ]![]() 古代日本で 「 大王という称号 」 が使われたことを示す物的証拠が、古墳からの出土品の鏡 ・ 鉄剣にあります。
![]() その銘文の一部には、 癸未年八月日十 大王年 男弟王 在意柴沙加宮時斯麻念長寿( 以下省略 ) ( その意味 )とありました。それでは 「 えと 」 でいう癸未 ( きび、みずのと ・ ひつじ ) の年とは西暦何年のことかといえば、 諸説あるものの 443 年、または 503 年に該当します 。 443 年とすると、この大王は、 第 19 代、允恭 ( いんぎょう ) 天皇 ( 在位 412 ~ 453 年 ) を指すものと解釈できます。 ( 5-2、稲荷山古墳の鉄剣 ) ![]() 鉄剣の表裏に タガネ で文字を刻み、そこに 「 金線 」 を埋め込む 「 金象嵌 」 ( きん ぞうがん ) の手法で表に 57 字、裏に 58 字の合計 115 字の銘文が記されていました。その一部を下記に示しますが、当時から優れた彫金 ( ちょうきん ) 技術者の存在が推測されます。 ( 銘文 )稲荷山古墳の年代は考古学によれば 5 世紀後半 ~ 6 世紀前半とされるので、銘文の冒頭にある 「 えと 」 の 辛亥 ( しんがい、かのと い ) の歳とは 471 年か 531 年であり、大王とは雄略天皇に最も近いことになります。
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注 : ( 銘文 )と刻まれていました。この大刀の銘文の欠落箇所は、94 年もの長い間 獲 X X X 鹵大王 の読みが不明のままでした。ところが前述したように、1968 年に埼玉県行田市の 稲荷山古墳から出土した鉄剣の金象嵌 ( きんぞうがん ) の文字に、 獲 加 多 支 鹵 大 王 ( ワカタケル 大王 )と刻まれていたことから、欠落箇所が赤字で示す 獲 ( ワ ) 加 多 支 ( カ タ ケ ) 鹵 ( ル ) 大 王 であることが判明し、ここに大王の名前が確定しました。 以上の出土品から 五世紀 には漢字が日本で確実に使用されていると考えられています。ところが 636 年に成立 した随 ( ずい ) の史書である 隋書 卷 81 ・ 列伝 46・ 東夷には次のように記されています。 無文字唯刻木結繩敬佛法於百濟求得佛經始有文字 ![]()
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