恋に落ちたのは、
あのひとと俺との間には、特別な接点も繋がりも、なにもなく。
本当に、ただの先輩と後輩。
それだけの間柄であったはずなんだけれど。
いや、だからこそ、あの時に気付くべきだったのかもしれないと、
今となっては思うのだけれど。
誰が自分をどんな風に呼ぶかにはまるで無頓着なくせに、自分の親友ですら、パートナーですらも特別な愛称や名前で呼ぶ事をしないあのひとが、偶然目があった瞬間に笑って言った。
『練習には慣れた? おチビちゃん』
一歩間違えると侮蔑の表現とも取れるその言葉も、あのひとの口からごく自然に紡がれたそれ、にはなんの色も隠っていなくて。
気が付いたら、思わず普通に返事をしてしまってる自分がいて。
それから、あのひとは俺をそうやって呼ぶようになり、ほんの少しずつだったけど、会話の量が増えていった。
たまにふざけて抱きつかれたり、頭を撫でられたりさえするようになっても、否定的な感情が起こらない自分を不思議だとは思ったけど、それでもまだあのひとと俺は、ただの先輩と後輩でしかなかった。
それすらも、普段の自分ならありえない事だなんて、余りに自然すぎて気付きもせずに。
そして、変革は突然。
乾先輩考案だという、攻守に分かれての変則ラリー練習。
たった5球だけの勝負で、試合とはとても言えないようなものではあったけれど、そんな練習ですらよくよく考えれば、あのひとと打ち合うのが限り無く初めてに近い事に気付いた。
あのひとはダブルス専門で、シングルス専門の俺とはプレースタイルひとつとっても180度違うと言っても過言ではなくて。
手塚部長のように非のうち所のないプレーをするわけではないし、不二先輩のように巧いと思わせるプレーをするわけでもない。
けれど、あのひとのプレーは俺にとって今まで見た事のないテニスだった。
だから、試合ですらないこんなお遊びのような練習でも、初めてあのひとと打ち合える、と。
順番を待つ間、どこか高揚する気分を持て余している自分に気付いて、少し可笑しくなる気持ちを誤魔化すために帽子の鍔をぐい、といつものように引き下げた。
「お〜チ〜ビ〜!! 負けたからって先輩の頭にボールぶつけるなんてどういう了見だっ!!」
「手が滑っただけっスよ。あれくらい避けられないなんてまだまだっスね、菊丸先輩」
「ふーーんだ、何を言ってもおチビの負けは負けだもんねー。ちゃんと飲めよな! 乾汁!」
「ぅ……………………」
べー、なんて舌を出して小突いてくる彼の言葉に反論できず詰まってしまった俺は、さぞ苦々しいカオをしてしまっていただろうと思う。
そう、結局ラリーは俺の負け。
ルールを言い忘れてたなんてラリーの途中で付け加える乾先輩もどうかと思うけど、それでも負けは負け。
あの状態で前衛に出なければ勝てないと思ってしまった時点で、俺の負けだったのだろう。
負けたのも悔しいが、たった5球しか打ち合えなかったのは、もっと悔しかった。
だって、彼は全然本気など出していなかったし、自分にしたって、まだまだこれから、という所で終わってしまった。
たった5球しかなかったのに、それでも思ったのだ。
彼のプレーを、もっと知りたいと。
俺が決して辿り着かない場所を目指しているのだろう、彼のテニスを。
「…なんか、不完全燃焼」
思わず唸るように零してしまった言葉を耳聡く拾ってしまったらしい彼が、大きな眼を更に大きくして、覗き込んできた。
「いーじゃん、まだまだこれからいくらでも打ち合う機会はあるんだし、ランキング戦でもそのうちぶつかるっしょ?」
「………っす」
「それにさあ、おチビ」
にこり、と笑った彼は、どこまでもいつもの彼でしかなかった筈だったのに。
「おまえには、負けるつもりないよ? まだ、ね」
ぽつりと漏らされた呟きは一見いつもと変わらない軽いものだったから、ごく普通にその言葉を流そうとして、失敗した。
だって、彼の瞳を、見てしまった。
軽い口調といつもの笑顔はそのままに、瞳の奥にちらりと翳る清冽な炎を。
どきり、と心臓が派手な音を立てたのを、何故か気付かれたくないと咄嗟に思った。
ただ、明るいだけだと、いつも笑っているだけだと思っていた彼の、見た事のない瞳の奥にある炎だけがいつまでも脳裏から離れず。
どくどくと鳴り続ける自分の心臓がいつものリズムを取り戻すのを、ただ彼に気付かれぬようにと願いながら待つ事しかできなかった。
あなたと俺の間には特別な繋がりなど、特別な接点などなにもなく。
それでもその瞳に堕ちてしまった、その瞬間。
自覚したときにはもう戻る事すら叶わない、恋が確かに始まっていたのです。
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