だめだ。
心に浮かぶのはそんな言葉。
何がだめかなんて、そんなのわからないけど。
それでもただ、だめだ、と。
それを見ちゃいけないと。
直視してしまったらもう、戻れなくなるんだと。
そんな漠然とした、微かな恐怖。

だから、俺はあの人から目を逸らす。
だから、あの人の手をさりげなく躱す。

自分でもあからさまにおかしいと、わかってしまう態度でも。
俺には、そうするしかないのだから。
そうして、俺は気が付けばあの人に引き寄せられそうになる視線を、無理矢理逸らす。
そんな事はその場凌ぎでしかないと、心のどこかで諦めていても。






「ねえおチビ、なんか変だよ? 何でオレの事避けてんの?」

「……なこと、ない、っスけど」

気付かれている、そんな事はわかっていたんだけど。
だって、俺の態度はアンタを騙しきれる程余裕もなくて、だから。
でも、一週間ほど黙ってそんな俺を見ていてくれたアンタが、今になってそんなにストレートな言葉をぶつけてくるなんて思いもしてなかったから、俺は、いつもより静かな表情でさらりとそんな言葉を投げてくるアンタの顔からやっぱり目を逸らしながら、やっとの事で一言だけの弱い否定の言葉を告げる事しかできなかった。

けれど、多分アンタを到底納得させることなんてできなかっただろう台詞に、いつもなら顔を多少強引に覗き込んででも『なんで?』と追求してくるはずのアンタは、手を伸ばしても触れるか触れないか、そんな距離を保ったまま、動かなかった。
「…そう」
ただぽつりと一言だけ、肯定とも否定ともとれる、そんな響きで。

それだけを口にしたまま、立ち去るわけでもなく、近付くわけでなく、ただそのまま其処に居るアンタを見ないように、俺はぎゅっと目を瞑り、そしてそれを気付かれないように少し俯く。
きっと少し高い位置にあるこの人の目線からは、深めに被った帽子が俺のこんな表情を隠してくれるだろう、とそんな事をぼんやりと思いながら。
「おチビ」
ふと空気が動いて、反射的にぴくりと身を強ばらせた俺に、ちいさくちいさく、呼び掛ける声。


「でも、おチビ、オレになにか言いたいんでしょ?」




静かな、それでも絶対的な確信の響きを持った声に、閉ざしたままの瞳の奥が熱くなった。
このひとは、全部、知っているのかもしれない。
俺でさえわからないこの衝動や、つじつまの合わない気持ちと、行動の答え。
だめだ、とやっぱり心は警鐘を鳴らすけど、でもそれ以上に。
苦しい、ねえ、苦しいんだよ。
英二、先輩。

「--------っ」

「英二」

耐え切れない衝動のまま溢れそうになった言葉を寸前で、不意に柔らかく響いた声が押し止めた。
「不二」
「そろそろ練習戻らないと、手塚に走らされるよ」
どこか仕方ないな、という響きを含んだ親友の声に、一瞬だけ躊躇った気配と、ちいさく息を吐く音が。
ほら、だって、たったそれだけの気配を目を逸らしたままでも、全身で感じようとしてしまう俺は、やっぱりどうかしてるんだと思うのに。
こんな苦しさは、知らない。

「うん…、そだね、ほらおチビも、練習頑張って」
いつも通りを装った言葉のあとに、ぽん、と一度だけ頭に触れた感触が慣れたものより少しだけ優しくて、ずっと続いている、ぎゅうと心臓を握られたような苦しさに、知らず俯いたままの顔を顰めた。












だって言えないよ。
とても、言えない。
自分の心さえわからないまま、
ただこのてのひらが、
この全身が。

アンタに触れられるだけで、
アンタに触れたくて、

気が、狂いそう、

……なんて。


遠ざかるあのひとの気配に、息が止まりそうな苦しさをもてあましても。




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